2015年12月10日

東京の中の佐賀「青山霊園29 向井義勝・川浪治倫」

側面に「佐賀縣士族」という文字を見つけ、調べてみると「海軍大尉正六位向井義勝墓」とありました。
向井義勝(?-1890)は、明治7年頃少尉補となり、10年の西南戦争に際しては東艦(あずまかん)に乗り組み、瀬戸内地方の警備につきました。東艦は、鋼鉄製装甲の先駆的な軍艦で、佐賀の乱(佐賀戦争)にも出動しています。
12年頃少尉、16年11月中尉、海軍兵学校の運用術練習艦富士山の員外乗組、18年4月富士山分隊長になります。その後、横須賀屯営分隊長、航海練習艦石川丸分隊長、金剛分隊長、浦賀屯営分隊長等を歴任、22年5月廃職により休職となります。23年2月19日正七位に補されますが、20日没しました。(明治過去帳)

東京の中の佐賀「青山霊園29 向井義勝・川浪治倫」
2013年4月撮影

東京の中の佐賀「青山霊園29 向井義勝・川浪治倫」
2013年4月撮影

墓碑では、2月19日卒となっていました。

東京の中の佐賀「青山霊園29 向井義勝・川浪治倫」
2013年4月撮影

同じく「佐賀縣士族」の記載がある海軍大尉の墓がありました。「従六位川浪治倫墓」とあります。
川浪治倫(?-1894)は明治13年12月、海軍兵学校を卒業(7期)、明治14年頃少尉補を拝命、16年11月少尉になります。武蔵分隊士、龍驤艦機関長心得、葛城分隊長、横須賀屯営勤務、横須賀鎮守府兵器部主幹兼武庫主幹佐世保軍港司令官伝令使、満珠分隊長を歴任しますが、27年9月5日病死します。この日特旨を以て従六位に進められました。(明治過去帳)

東京の中の佐賀「青山霊園29 向井義勝・川浪治倫」
2013年8月撮影

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川浪が卒業し、向井が指導した、海軍兵学校、あるいはその前身海軍兵学寮の跡は、中央区築地の国立がんセンターの片隅にありました。

東京の中の佐賀「青山霊園29 向井義勝・川浪治倫」
2011年10月撮影

海軍兵学校は、明治21年、呉市の呉鎮守府に近接した広島県の安芸郡江田島町(現在の江田島市)に移転しています。

東京の中の佐賀「青山霊園29 向井義勝・川浪治倫」
2010年9月撮影


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Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 08:30 │東京の中の佐賀