2015年08月06日

東京の中の佐賀「青山霊園20 江副廉蔵」

江副廉蔵(1849-1920)は、波瀾万丈の生涯を送った人物です。
廉蔵は嘉永元年12月26日(1849年1月20日)に佐賀城下の鬼丸で生まれました。長崎の致遠館で英学を修めた後、三重津の海軍所で英語を教えたそうです。明治2年、佐賀藩の軍鑑電流丸の艦長真木長義に従って長崎に航海した時、こっそり英国船に乗り込んで上海に密航し、佐賀藩が上海に開いていたと思われる「三松洋行」という商社に入って貿易に従事、たまたまシンガポールで開催された博覧会に有田焼を出品、タイの国王が視察するなど名声を博したようです。

東京の中の佐賀「青山霊園20 江副廉蔵」
2013年1月撮影

その後帰国し、北海道開拓使、参謀本部などに出仕していましたが、役人勤めは廉蔵の志とは違っていたようで、辞職してアメリカのフィラデルフィアで開催されている万国博覧会に参加する有田香蘭社の社員に通訳として同行、その後ニューヨークに商社を設立、東京に米国産煙草の販売会社を設立するとともに、日本の美術品を輸出販売を手がけました。いわば日米貿易の先駆者です。その後、朝鮮、満州に渡って煙草生産や販売を手がけました。

東京の中の佐賀「青山霊園20 江副廉蔵」
2009年9月撮影

墓には「大慈院殿直指謙照居士」と刻まれ、裏には廉蔵の事績が刻まれていました。右側には妻久満子(1856?-1912)の墓がありました。

東京の中の佐賀「青山霊園20 江副廉蔵」
2009年9月撮影

江副家の墓には、廉蔵らの仏式の墓のほかに、キリスト教式の墓もありました。右側は江副家を継いだ、江副隆一の墓です。

東京の中の佐賀「青山霊園20 江副廉蔵」
2009年9月撮影

隆一(?-1935)は、廉蔵の子で、アメリカのマンリュース士官学校で学びました。その後江副商店を経営しましたが、昭和の大恐慌に巻き込まれ、江副商店は倒産してしまいます。
しかし、彼らの国際性は江副家の子供たちに受け継がれ、現在新宿の高田馬場で江副学園新宿日本語学校を経営され、日本で活躍したい海外の人たちに日本語を教えられています。

東京の中の佐賀「青山霊園20 江副廉蔵」

東京の中の佐賀「青山霊園20 江副廉蔵」
2010年2月撮影

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廉蔵の姉美登(美登利・美登子)は、大隈重信の最初の夫人で、一子熊子をもうけています。

東京の中の佐賀「青山霊園20 江副廉蔵」
2013年1月撮影


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Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 08:30 │東京の中の佐賀
この記事へのコメント
こんにちは。江副廉藏さんは私のひぃおじいさんにあたります。私の母の父が江副廉藏の子です。江副廉藏さんについては、母から叔母からいろいろ聞いておりました。そんな母も去年93歳で安らかに眠りにつきました。今日が命日です。ふとそんな母の江副を何気なく見たくなりページを開きました。
時はたち世の中も激しく変わりましたが永遠に変わらないものもありますね。たくさん知らなかった事もあり興味深く拝見させて頂きました。
Posted by 小島敦子 at 2018年02月25日 10:49