2016年02月04日
東京の中の佐賀「青山霊園33 高木背水・江藤淳」
この「高木家之墓」とのみ記された墓碑は、高木背水の家のものであることを別の資料で知りました。しかし、墓域を見る限りそれを確認できる銘等は確認できませんでした。
高木背水(1877-1943)は佐賀城下松原町に生まれました。鍋島邸の玄関書生をつとめながら絵の修業をはじめた高木は、「背水の陣」の覚悟で画家を志し、上京して曾山(大野)幸彦の大野塾(のちの大幸館)に入門、その後白馬会研究所に入ります。さらにアメリカやイギリスに留学、文展、光風会、太平洋画会展などに出品、「ウインザー橋の朝」、「晩秋」「春風桜花図」などの明るい画風の作品を描きました。
2009年9月撮影
2009年9月撮影
その後に訪れたところ、高木家の墓は、御影石の切り石で囲み、玉砂利を敷いた墓に整備されていました。
2013年1月撮影
江藤淳(1932-1999)は、文学評論家として活躍しました。本名は江頭淳夫といいます。妻慶子を失った翌年、自らを「形骸」と称して後を追うように自殺したことは、社会に大きな衝撃を与えました。
江藤が書いた『一族再会』という本には、深い感銘を受け、またこのブログでも参考にさせていただきました。
江藤の祖母米子は佐賀藩出身の海軍少佐古賀喜三郎の娘であり、この海軍という社会と江頭家は切っても切れない関係があります。江藤は、古賀喜三郎や米子の佐賀に対する複雑な思いをひもときながら、祖母が嫌った江藤新平の江藤という苗字を筆名に選びます。
2009年9月撮影
慶子と淳夫の名前を刻んだ墓誌は、墓石の後に目立たぬように建てられていました。
2009年9月撮影
高木背水(1877-1943)は佐賀城下松原町に生まれました。鍋島邸の玄関書生をつとめながら絵の修業をはじめた高木は、「背水の陣」の覚悟で画家を志し、上京して曾山(大野)幸彦の大野塾(のちの大幸館)に入門、その後白馬会研究所に入ります。さらにアメリカやイギリスに留学、文展、光風会、太平洋画会展などに出品、「ウインザー橋の朝」、「晩秋」「春風桜花図」などの明るい画風の作品を描きました。
2009年9月撮影
2009年9月撮影
その後に訪れたところ、高木家の墓は、御影石の切り石で囲み、玉砂利を敷いた墓に整備されていました。
2013年1月撮影
江藤淳(1932-1999)は、文学評論家として活躍しました。本名は江頭淳夫といいます。妻慶子を失った翌年、自らを「形骸」と称して後を追うように自殺したことは、社会に大きな衝撃を与えました。
江藤が書いた『一族再会』という本には、深い感銘を受け、またこのブログでも参考にさせていただきました。
江藤の祖母米子は佐賀藩出身の海軍少佐古賀喜三郎の娘であり、この海軍という社会と江頭家は切っても切れない関係があります。江藤は、古賀喜三郎や米子の佐賀に対する複雑な思いをひもときながら、祖母が嫌った江藤新平の江藤という苗字を筆名に選びます。
2009年9月撮影
慶子と淳夫の名前を刻んだ墓誌は、墓石の後に目立たぬように建てられていました。
2009年9月撮影
東京の中の佐賀「おわりに」
東京の中の佐賀「品川台場」【最終回】
東京の中の佐賀「雑司ヶ谷 納富介次郎」
東京の中の佐賀「青山霊園33 江藤新平と交わった人たち」
東京の中の佐賀「青山霊園32 鍋島藤蔭・幹」
東京の中の佐賀「青山霊園31 中島永元」
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Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 08:30
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