2016年01月07日

東京の中の佐賀「青山霊園31 中島永元」

佐賀藩士で教育者、中島永元の墓は、墓地の中央付近で見つけました。
短冊形の墓域で、周辺を常緑樹で囲んでいます。入口は長辺側にあり、永元や中島家の墓塔は、その片方に寄せて設けられており、残りの空間は空き地のままになっていました。もしかすると、墓石等の整理が行われたのかもしれません。永元の墓は、一番奥に長辺側に向けて営まれていました。

東京の中の佐賀「青山霊園31 中島永元」
2014年3月撮影

中島永元(ながもと、もりもと、えいげん1844-1922)は、佐賀藩士中島永遠の子として鬼丸小路で生まれました。戊辰戦争以前の永元の学歴等については、さまざまな記載があり判然としませんが、おおむね藩校弘道館や、佐賀藩が設置した蘭学寮で学んだ後、副島種臣、大隈重信らと長﨑に遊学、幕府直轄の洋学校済美館や佐賀藩が設置した致遠館で蘭学、英学を学んだようです。戊辰戦争が起こると江戸に向かい、国事に奔走します。
新政府になると、大学中助教兼中寮長、大寮長になり、明治3年大学出仕として大阪洋学校、南校の事務を行いました。岩倉使節団には文部大丞田中不二麿の随行員として英米の教育を調査しています。その後、文部大書記官、大阪洋学校長、大学分校長、第三高等学校校長などを歴任し、さらに元老院、貴族院議員も務めました。

東京の中の佐賀「青山霊園31 中島永元」
2014年3月撮影

墓碑には、「錦鶏間祗候貴族院議員従三位勲二等中島永元墓」とあります。錦鶏間祗候とは、1890年(明治23年)に廃止された元老院の議官であった者を処遇するため、同年5月30日に設置された資格です。

東京の中の佐賀「青山霊園31 中島永元」
2014年3月撮影

永元は、かねて病気療養中のところ、大正11年11月10日朝逝去しました。
妻は東京人シツ(旧姓田中)です。

東京の中の佐賀「青山霊園31 中島永元」
2014年3月撮影


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Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 08:30 │東京の中の佐賀