2016年03月03日

東京の中の佐賀「雑司ヶ谷 納富介次郎」

豊島区は、かつてどこか暗い雰囲気がありましたが、平成以後は、明るい町に変貌したように感じます。いわゆる池袋ルネサンス、文化による街づくりの成果でしょうか。
雑司ヶ谷霊園は、豊島区の南部にあります。東側の音羽池袋線を挟んで向かい側には大隈重信の墓があった文京区の護国寺があります。
この雑司ヶ谷霊園もかつては塀に囲まれた墓地だったらしいのですが、今は明るい雰囲気の霊園になっていました。
ここには、竹下夢二や小泉八雲、ジョン万次郎、泉鏡花、大川橋三という人たちが眠っていますが、佐賀県関係では納富介次郎の墓があります。

東京の中の佐賀「雑司ヶ谷 納富介次郎」
2013年11月撮影

納富介次郎(1844-1918)は、小城藩士柴田花守の次男で、16歳の時納富六郎左衛門の養子となりました。13歳の頃、単身藩を脱し、長洲藩に遊び、志士と交わり、王政復古の大志を実現しようと京に上るも、計画を察知した父親に連れ戻されたそうです。
明治6年、オーストリアの万国博覧会に佐野常民に従って渡航、欧米の製陶技術を学んで帰朝、自ら新しい技術による工芸を試みるとともに、幼少の頃からの絵画への興味から後に図案や工芸デザインにも活路を開きました。
佐賀県を初めとする日本各地に県立工業学校を作り、また女子の工芸教育振興にも尽力しました。

東京の中の佐賀「雑司ヶ谷 納富介次郎」
2013年11月撮影

介次郎は妻静子とともに眠っていました。静子は大正6年10月、65歳で没し、介次郎はその後を追うように、翌7年3月に75歳で亡くなっています。

東京の中の佐賀「雑司ヶ谷 納富介次郎」
2013年11月撮影

ちなみに、この写真の二人の墓の間の奥のほうに見える厳かに営まれている墓は、夏目漱石の墓です。

東京の中の佐賀「雑司ヶ谷 納富介次郎」
2013年11月撮影



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Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 08:30 │東京の中の佐賀