2015年10月01日

東京の中の佐賀「青山霊園24 伊東武重」

伊東武重(1831-1889)は、新政府において地方官を務めた後、大蔵省に入り出納局長などを歴任しました。
武重は、天保2年8月28日、佐賀藩医相良柳庵(長美)の次男として八戸に生まれました。相良家は代々柳庵を名乗り、長美は六世柳庵です。長男安定(寛斎)は、直正の侍医を務めました。弟知安は蘭法医として佐賀藩医を務め、さらに日本の近代医学制度の創設に貢献、文部省築造局長兼医務局長として医学校及び大学病院(現在の東京大学医学部)の新築に当たりました。末弟の元貞(1841-1875)は、現在の東京大学、大阪医学校の中教授を務めた後、プロシアのベルリン大学に医学留学しましたが、解剖実習中の感染症により客死します。
武重は、最初善次と称し、枝吉神陽の義祭同盟の最初の集まり(嘉永3年)に、枝吉次郎(副島種臣)、島団右衛門(義勇)、大木幡六(喬任)らとともに参加しています。
その後佐賀藩士伊東祐清の養子となります。


2013年8月撮影

明治4年11月、豊前の豊津、中津、千束県が統合されて小倉県が置かれましたが、その参事に武重が任命されています。
明治7年頃、記録寮に五等出仕します。その後、出納寮や国債寮に出仕し、10年大蔵権大書記官に任じられ出納局長に補されます。さらに大書記官に補され、明治15年には記録局長になります。17年勲六等に叙され、単光旭日章を賜りました。20年4月9日、特旨を以て正五位に進みましたが、13日小石川の自宅で卒しました。


2013年8月撮影

武重の妻は安子(1839-1918)といいました。


2013年8月撮影

武重の長男、祐穀(1860又は1861-1921)は、統計学の大家として知られています。内閣統計局に勤め、欧米の統計の実際を視察し、日本の統計学に活用しました。墓誌には「万延元年九月五日生」とあります。


2013年8月撮影

墓域内には、武重の養母梶子の墓もありました。


2013年8月撮影  


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2015年09月17日

東京の中の佐賀「青山霊園23 荒木博臣」

荒木博臣(1837-1913)は、戊辰戦争では政府軍として戦い、新政府においては大審院判事を務めました。
荒木家の墓は、青山霊園の南北メインストリートに面しており、墓域内に立つ巨大な墓誌は、往来する人の注意を引きます。私も、気にかかって墓誌を読み、これが佐賀藩出身の人の墓であることを知りました。


2013年1月撮影


2013年1月撮影

博臣の墓誌「壽藏碑」は、博臣と同じく大審院判事や宮中顧問官などを務めた三島毅が撰し、帝室博物館総長や宮中顧問官を務めた股野琢が揮毫しています。篆額は、鍋島直大によるものです。


2013年1月撮影

墓誌により、博臣の経歴を追ってみましょう。(他の資料で補足しました)
博臣は天保8年10月7日に佐賀藩士山口志設軒仲の子として生まれました。最初の名は権六といい、白縫と号しました。万延年頃博臣は藩校弘道館に在籍していました。枝吉神陽の義祭同盟にも参加しており、桜田門外の変のことを耳にして慷慨していましたが、藩命により江戸に遊学することになると、先に上京していた友人中野方蔵とともに昌平黌に学び、国事を論じます。


2013年4月撮影

しかし、文久2年、方蔵が坂下門外の変に巻き込まれると、博臣は嫌疑が及ぶのを恐れて奥羽へ行き、石巻や遠野を巡ります。翌年下関戦争が起こると入京し、討幕運動に身を投じます。文久3年の八月十八日の政変で三條公ら七卿が京を落ちて西奔すると、これを追って長州へ行きますが、長州に入れず、一旦佐賀藩に戻ります。元治元年、荒木氏の養子となります。
慶応3年、佐賀藩兵を督して入京し、その後奥羽戦争に参加し藩兵を率いて北陸道を転戦。乱平定後は、宮谷県大参事、長野・筑摩県権参事として、民政に務め、明治5年司法省に入り、大審院判事、大阪控訴院評定官、再び大審院判事から高等官を務めます。從四位に叙されました。
前妻(津天)の間に虎太郎、後妻大塚阿佐(浅)の間に四男三女を設けますが、長男経吉、次男熊次郎、三男龍三郎、三女房は夭折します。虎太郎は法学者。末男三雄は別家を立てます。長女茂は森家に、次女榮は山口家に嫁ぎます。

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博臣の名は、虎ノ門にある「贈正四位江藤新平君遭難遺址碑」の中に見えます。
佐賀藩邸で博臣らと酒を飲んでいた江藤が、藩邸を出た所で同藩の暴漢に襲われた経緯を刻したものです。この碑の建立には、博臣の子三雄が関わりました。


2006年11月撮影

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博臣の名が世に知られているのは、娘茂(志げ、後茂子)が森鴎外に嫁いだためです。茂の最初の結婚は、相手の女遊びが原因で二十日で破たんしており、鴎外との結婚は再婚になります。鴎外も40才になってからの再婚でした。21才の茂は美しかったらしく、鴎外自身「良イ年ヲシテ少々美術品ラシキ妻ヲ相迎ヘ」と親友賀古に伝えています。しかし、この結婚は、姑などとの関係で、大変苦労の多いものだったようです。
写真は、志げとの婚礼が行われた鴎外の居宅「観潮楼」の跡に建てられた千駄木の鴎外記念館です。


2014年3月撮影  


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2015年09月15日

お詫びと訂正

「佐賀偉人伝」の02『大隈重信』、12『副島種臣』、14『枝吉神陽』の図版説明に誤りがありました。
お詫びして訂正します。
正しくは以下のとおりです。


蕃学稽古所の佐賀藩士たち(慶応三年) 
右から、中山信彬、中野健明、大隈重信、堤董信、小出千之助、
相良知安、副島種臣、中島永元、副島要作

【正誤表】
『大隈重信』P11/『副島種臣』P8
[正]      [誤]
中山彬 ← 中山彬
信  ← 堤薫信

『枝吉神陽』P78
[正]      [誤]
中山彬 ← 中山彬
  

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2015年09月03日

東京の中の佐賀「青山霊園22 千葉胤明」

千葉胤明(1864-1953)は、歌人として知られています。
胤明は、現在の佐賀市久保田町に生まれました。父は桂園派の歌人賢隆坊元祐です。胤明は、佐野常民に師事し、明治初期の美術団体龍池会に勤めながら、鹿児島出身の高崎正風に歌を学んだそうです。その後、農務省博覧会、内国博覧会、パリ万国博覧会事務などを行っていましたが、1892年宮内省御歌所に採用されます。
桂園派の人々は、明治政府の歌道御用掛や御歌所などの要職に採用されており、正風も御歌所初代所長を勤めていたため、胤明の御歌所採用は正風による勧めがあったのでしょう。


2009年9月撮影

胤明は、1908年御歌所寄人になり、1916年から1919年に明治天皇御製編纂に従事、1936年から1944年には歌会始の点者を務めます。1937年帝国芸術院会員になり、1946年従三位に叙せられました。


2013年1月撮影

「千葉家之墓」と書かれた墓碑の正面には、胤明の歌碑がありました。
「新しき國につくさむ むつみあひ ともにはたらき 共に栄えて」とあります。
胤明は書家としても有名で、有名子、春翠などと号しました。


2009年9月撮影

裏には
「昭和二十六年六月十一日/三期奉仕元御歌所寄人/日本芸術院会員/従三位平胤明/八十八歳」とありました。


2009年9月撮影  


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2015年08月20日

東京の中の佐賀「青山霊園21 円城寺清」

円城寺清(1870-1908)は、政界を舞台に活躍したジャーナリストで、行動する言論人と呼ばれました。
清は、小城郡晴田村(現在の小城市小城町)に生まれ、佐賀尋常中等学校に入りましたが、ストライキのため退学したそうです。明治25年、早稲田大学の前身東京専門学校を卒業して郵便報知新聞に入りました。郵便報知新聞は、明治14年に大隈重信らによって買収され、立憲改進党の機関紙となっていました。清はその後、改進党党報局に移り、また改進党の東京支部常務幹事を務めます。この頃から、各地に遊説して党勢の拡張に尽くしましたが、改進党分裂後は、憲政本党党報の主任記者、明治32年には万朝報記者に転じ、健筆を揮いました。普通選挙同盟会、非増租同盟会、国民同盟会、対露同志会、講話問題同盟連合会、同志記者倶楽部、国民後援会、丁未倶楽部など多くの組織にも関係し、河野広中、島田三郎らとともに政界刷新を企てました。


2014年3月撮影

円城寺天山と号しました。


2014年3月撮影

裏には「明治41季10月21日歿」とあります(22日没とする資料もあります)。将来を期待されましたが、39才の若さで亡くなりました。


2014年3月撮影  


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2015年08月06日

東京の中の佐賀「青山霊園20 江副廉蔵」

江副廉蔵(1849-1920)は、波瀾万丈の生涯を送った人物です。
廉蔵は嘉永元年12月26日(1849年1月20日)に佐賀城下の鬼丸で生まれました。長崎の致遠館で英学を修めた後、三重津の海軍所で英語を教えたそうです。明治2年、佐賀藩の軍鑑電流丸の艦長真木長義に従って長崎に航海した時、こっそり英国船に乗り込んで上海に密航し、佐賀藩が上海に開いていたと思われる「三松洋行」という商社に入って貿易に従事、たまたまシンガポールで開催された博覧会に有田焼を出品、タイの国王が視察するなど名声を博したようです。


2013年1月撮影

その後帰国し、北海道開拓使、参謀本部などに出仕していましたが、役人勤めは廉蔵の志とは違っていたようで、辞職してアメリカのフィラデルフィアで開催されている万国博覧会に参加する有田香蘭社の社員に通訳として同行、その後ニューヨークに商社を設立、東京に米国産煙草の販売会社を設立するとともに、日本の美術品を輸出販売を手がけました。いわば日米貿易の先駆者です。その後、朝鮮、満州に渡って煙草生産や販売を手がけました。


2009年9月撮影

墓には「大慈院殿直指謙照居士」と刻まれ、裏には廉蔵の事績が刻まれていました。右側には妻久満子(1856?-1912)の墓がありました。


2009年9月撮影

江副家の墓には、廉蔵らの仏式の墓のほかに、キリスト教式の墓もありました。右側は江副家を継いだ、江副隆一の墓です。


2009年9月撮影

隆一(?-1935)は、廉蔵の子で、アメリカのマンリュース士官学校で学びました。その後江副商店を経営しましたが、昭和の大恐慌に巻き込まれ、江副商店は倒産してしまいます。
しかし、彼らの国際性は江副家の子供たちに受け継がれ、現在新宿の高田馬場で江副学園新宿日本語学校を経営され、日本で活躍したい海外の人たちに日本語を教えられています。




2010年2月撮影

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廉蔵の姉美登(美登利・美登子)は、大隈重信の最初の夫人で、一子熊子をもうけています。


2013年1月撮影  


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2015年07月23日

東京の中の佐賀「青山霊園19 長森敬斐・成富清風」

青山霊園にあるお墓は、いつまでもそこにあるわけではないようです。私が個別に興味を持って、調べたいくつかの著名人のお墓も、既存の資料に記載されていた場所をいくら探しても見つからないものがありました。
長森敬斐(1833-1902)は、佐賀藩士で、加賀伊卿の二男として生まれ、長森家を継ぎます。江戸に遊学して攘夷運動にも参加したようですが、維新政府には江藤新平の勧めで左院議官となり、法制を職掌し、民法、商法、会社法、破産法、違詮罪などの制定に携わりました。『大小銃製造録』や「内外台場改策始末」等の編集にも携わっています。
敬斐の墓は、青山霊園の北東側にありましたが、最近改めて調査をしに行ったところ、かつてあったあたりを随分探してみたのですが、どうにも見当たりません。
多分、移設されたのでしょう。


2009年9月撮影

敬斐の墓には、正面に「正五位勲五等長森敬斐君墓」とあり、墓石の裏に墓誌がありました。この墓誌は、久米邦武の撰、日下部東作の書によるものです。


2009年9月撮影

敬斐の墓の左には「敬斐先生室秀子墓」があり、その裏には草書体の墓誌がありました。秀子(1851-1933)は佐賀鬼丸で長森家の息女として生まれ、敬斐を夫として迎えます。渋谷の富ヶ谷にて83才で没しました。


2009年9月撮影

成富清風(1838-1882)も、佐賀藩士で、維新政府のもとで清国等に留学、その後外務省に出仕し、明治9年千島・樺太交換条約締結後のサハリン州コルサコフ副領事として赴任、翌年には領事となりました。12年病気により辞任、13年鍋島直大が特命全権公使イタリア駐剳を命じられると、清風も随行しますが、この時も病により3年で帰京しました。
清風の墓も、青山霊園の鍋島家墓地に近い所にありましたが、今は墓地整理にかかり、その場所にはありません。
(写真は、平成17年頃本丸歴史館で調査を行った時のものです)


  


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2015年07月09日

東京の中の佐賀「青山霊園18 石丸安世」

青山霊園に戻ってきました。前回までに紹介できなかった方の墓を少し散歩してみましょう。
石丸安世(1834-1902)は、「日本電信の祖」などと呼ばれます。日本の電信の重要幹線である東京―長崎線、東京―青森線の設置に尽力しました。
安世は、佐賀城下本庄町に生まれました。長崎海軍伝習所に学び、長崎で知り合ったグラバーの斡旋で、同じ佐賀藩の馬渡八郎とともにイギリスに密航します。帰国後は有田陶業の指導や町民の教育に努めていましたが、明治4年工部省に出仕すると、電信頭として日本の電信組織の創設に努めました。


2013年1月撮影

その後、大阪造幣局長、小浜造船所長なども務めます。のち元老院議官に任命されました。死後従三位に叙されました。


2013年1月撮影

安世の墓の右に「室愛子之墓」があります。愛子(1847-1913)は生前は「阿以」と表記されていたようです。長崎西浜町の住で、長崎士族中村吾道の従妹だそうです。安世が長崎留学中に知り合ったのでしょうか。


2013年1月撮影

墓域内に立つ「経綸之碑」は、安世の生涯を刻んだものです。撰文は久米邦武、篆額は大隈重信、書は西岡逾明によるものです。経綸は、安世がイギリスから帰国後、現在の伊万里市久原に開いた私塾「経綸舎」の名前と共通します。安世はこの「経綸」という言葉が好きだったのでしょうか。


2013年8月撮影  


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2015年06月25日

東京の中の佐賀「谷中霊園4 大隈重信や佐賀関係の人びと」

前回、大隈重信の姉、相良妙子の墓を紹介しましたが、谷中霊園にはほかにも大隈重信に関係する人の墓がありました。
明治21年、第一次伊藤博文内閣の外務大臣に任じられた重信は、維新以来の懸案事項であった諸外国との不平等条約の改正に取り組みました。しかし、その内容に対する批判が各方面に起こります。
来島恒喜(1860 - 1889)は、福岡出身で、アジア主義を主張する政治結社玄洋社の社員でしたが、重信の条約改正案に反対し、大隈を暗殺するため、明治22年10月18日、重信が外務省からの帰路についた時、彼の乗る馬車に爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせました。来島は爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害をします。この事件によって大隈の条約改正交渉は中止され、大隈も辞表を提出します。


2013年4月撮影

恒喜の墓は、勝海舟によって谷中霊園に建てられました。この墓はその後、玄洋社の総帥頭山満によって建て替えられましたが、当初の墓石も傍に横たえられて残されています。
恒喜の墓は、博多崇福寺の玄洋社墓地にもあります。


2013年4月撮影

彫刻家朝倉文夫(1883-1964)は、早稲田大学の構内にある有名な大隈重信像を作りました。早稲田大学創設50周年と大隈重信没後10回忌を兼ねて作られたものです。


2013年4月撮影

文夫は、生涯3体の重信像を制作したそうですが、これは2体目の作です。


2013年1月撮影

同大学大隈庭園にある、重信の妻大隈綾子の銅像も、文夫の制作です。


2013年1月撮影



岩村通俊(1840-1915)は、明治6年7月に佐賀県権令に任命されました。難治県と言われていた佐賀県の中央集権化を目指して県庁改革などを進めましたが、反発も起こりました。その後任は弟の高俊(1845-1906)でしたが、この間の権令不在中に佐賀の征韓党は県庁を掌握し、高俊は熊本鎮台を率いて、着任、佐賀の乱(佐賀戦争)を鎮圧します。


2013年4月撮影

この墓は岩村通俊のものです。
通俊は、明治6年佐賀権令に任命されると、重信の元を訪れ、了解を得た上で赴任したそうです。


2013年4月撮影  


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2015年06月11日

東京の中の佐賀「谷中霊園3 相良妙子の墓」

相良妙子という名前だけで、この人の経歴がわかる人は、多分佐賀県の歴史の通でしょう。
「相良妙子」という名前が刻まれたこの墓は、何となく迫力があります。
妙子は大隈重信の10歳年上の姉です。


2013年4月撮影

側面には、「松壽院妙秀日薫大姉」という法名があり、大正4年11月16日86歳で亡くなったことがわかります。
逆算すると天保元年(1830年)頃の生まれです。
妙子は、大隈家に生まれ、19歳の時に佐賀藩の砲術師相良十郎左衛門という人と結婚します。しかし十郎左衛門は、戊辰戦争で病を得て帰国し、間もなく亡くなります。
大隈重信が、大蔵大輔として新政府に登用され、築地の旧幕臣の屋敷に入ると、妙子も一緒に移り住みます。重信は間もなく綾子と結婚しますが、2人は、ここに出入りする井上馨や伊藤博文ら多くの食客の世話をします。築地の本願寺に近いこの屋敷は「築地の梁山泊」と呼ばれました。


2013年4月撮影

妙子の墓の向かい側に、別区画仕様で相良家の墓があります。
墓誌を見ると、最初に相良剛造、次に相良好子という名前が見えます。
相良剛造は(明治33年(1900)5月9日没)は妙子の子です。東京株式取引所理事を務めました。
その夫人が相良好子(1852?-1935)です。姑の妙子から佐賀錦が伝授され、のち佐賀錦模様織りを考案したそうです。明治期に衰退中絶したものを、大隈重信夫人綾子とともに再興し、明治43年(1910)ロンドンで開催された「日英大博覧会」に「佐賀錦」を出品。その優美さが称賛されたそうです。


2013年4月撮影

2013年4月撮影

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大隈重信が住んでいたいわゆる「築地の梁山泊」があった場所は、現在の、築地本願寺の近くにある「新喜楽」という老舗料亭付近だそうです。この料亭は、芥川賞・直木賞の選考会が行われることで有名です。


2011年10月撮影

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佐賀市水ヶ江にある大隈重信旧宅です。国の史跡に指定されています。


2007年2月撮影
  

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