2013年01月10日

東京の中の佐賀「谷中墓地」

谷中墓地

谷中墓地(正式には都立谷中霊園)は、上野公園の北方、日暮里駅と鶯谷駅を結ぶ路線の西に接する地域に広がる墓地です。かつて、天王寺(旧感応寺)の墓域などがあった地域を明治7年東京都が谷中墓地として開設したものです。
地域内には寛永寺の墓地に属する徳川家墓地などが入り込んでおり、複雑な形をしています。
写真は現在の天王寺です。

東京の中の佐賀「谷中墓地」

徳川慶喜の墓もこの霊園の中にあります。寛永寺墓地に属します。

東京の中の佐賀「谷中墓地」

今回訪ねたのは、鶴田皓(あきら)の墓です。
鶴田家の墓域に正面から入ると、一番奥に「元老院議官正三位勲二等鶴田君之墓」があり、その左側に「正三位鶴田皓夫人琴子之墓」が並びます。

東京の中の佐賀「谷中墓地」

皓の墓の右手には「斗南鶴田君碑」があり、皓の経歴、業績などを記しています。

東京の中の佐賀「谷中墓地」

読んでみました。(まだきちんと照合していないので、所々読み間違いがあるかも知れません。)
これによると、鶴田皓(天保6年12月26日(新暦では1836年)-明治21年(1888))は字玄縞、斗南と号し、通称与太郎といいます。元肥前獅子ヶ城主鶴田前の子孫で多久家に仕え、9才で四書五経を誦し、11才にして律詩を賦すほどの秀才で、姑夫であった草場佩川に学び、後遊学して江木鰐水、安積艮斎、羽倉簡堂という、当時の儒学の碩学に学びます。
その後、明治元年の東征に藩兵として従軍しましたが、維新政府においては主に法制官として、欧州に刑典や司法事務を学び、日本の各種法制度制定に参与しました。
体が大きな人で、酒が強かったようですが、54歳の時突然病により亡くなります。
四男二女を設けました。
この文は、後、大審院判事、宮中顧問官なども務める三島毅(中洲)が撰し、書家巌谷修(一六)が書しています。篆額は、陸軍中将で司法大臣も務めた山田顕義の揮毫によるものです。

東京の中の佐賀「谷中墓地」

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「斗南鶴田君碑」は、実はもう一つあります。郷土多久の多久神社境内の一角です。
こちらも題字は山田顕義に依るものです。碑文の文章は、多久出身で大蔵権大書記官などを務め、「丹邱遺芳」などを著した深江順暢(1826~1893)が書いています。

東京の中の佐賀「谷中墓地」


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Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 08:30 │東京の中の佐賀
この記事へのコメント
碑文拝見しました。誤植があるようなので拾ってみました。
(3行目)古日立言→古曰(いわく)立言
(3行目)有立言迄→有立言亦
(5行目)旅不幾→後不幾
(6行目)木下犀譚→木下犀潭
(7行目)有初見→有所見
(同)犀譚→犀潭
(八行目)改定律令→改定律例
(14行目末)鈍敏→鋭敏
(15行目)井上梧陰賞語→井上梧陰嘗(かつて)語
(16行目)恐其于格→恐其千格 ?
(同)此議適定→)此議適足
(同)有姐?梧陰→有如梧陰
(17行目)今則悦稾→今則脱稾(稿)
(同)願其頌布→顾(顧)其頒(ハン=わかつ)布
(同)於此→於是
(19行目)李春三→季(すえ)春三
(20行目)故舊指金→故舊捐金
(22行目)経図文章→経國文章
(23行目)聖人複興→聖人復興
Posted by がらん at 2018年08月10日 22:45