2016年03月17日

東京の中の佐賀「おわりに」

最初から考えていたわけではないのですが、今回で99回目の紹介ができました。
まだまだ紹介したい場所のリストが残っているのですが、今日までに取材ができませんでした。
古今、「百物語」は99話で終わるのが吉なんだそうです。ということで、今回で一つの区切りとしたいと思います。
おつきあいいただいた方には、本当に感謝申し上げます。
ありがとうございました。(T)
  

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2016年03月17日

東京の中の佐賀「品川台場」【最終回】

佐賀藩がわが国初めての鉄製大砲の鋳造に成功、実用化のメドが立って間もなくの嘉永6年(1853)6月、ペリー艦隊が浦賀に来航します。江戸湾防備強化の必要性に迫られた幕府は、佐賀藩に対して鉄製大砲200門の製造を打診し、佐賀藩は、50門の製造を受注しました。
佐賀藩は、この注文に応えるため、それまで大砲を鋳造していた築地の反射炉とは別に、新たに反射炉を設置することを決め、城下町多布施に、その名も「公儀石火矢鋳立所」を設置し、大砲鋳造を行いました。
幕府ではこれと並行して、品川洲崎沖から深川洲崎沖に11ヵ所の海中台場を築く計画が立てられました。


2005年3月撮影

嘉永7年12月、最終的に6基の台場が竣工しました。この間、台場建設の最大の目的であったペリーの2度目の来航を嘉永7年1月に迎え、計画は大幅に縮小されたようですが、佐賀藩は安政2年(1855)までに26門(うち8門は運送中に沈没)、安政6年(1859)までに32門が船で江戸に送られ、結果的に受注された50門すべてが幕府に納品されています。
このうち42門が品川台場に配備されました。


2009年9月撮影


2009年9月撮影


2009年9月撮影
  

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2016年03月03日

東京の中の佐賀「雑司ヶ谷 納富介次郎」

豊島区は、かつてどこか暗い雰囲気がありましたが、平成以後は、明るい町に変貌したように感じます。いわゆる池袋ルネサンス、文化による街づくりの成果でしょうか。
雑司ヶ谷霊園は、豊島区の南部にあります。東側の音羽池袋線を挟んで向かい側には大隈重信の墓があった文京区の護国寺があります。
この雑司ヶ谷霊園もかつては塀に囲まれた墓地だったらしいのですが、今は明るい雰囲気の霊園になっていました。
ここには、竹下夢二や小泉八雲、ジョン万次郎、泉鏡花、大川橋三という人たちが眠っていますが、佐賀県関係では納富介次郎の墓があります。


2013年11月撮影

納富介次郎(1844-1918)は、小城藩士柴田花守の次男で、16歳の時納富六郎左衛門の養子となりました。13歳の頃、単身藩を脱し、長洲藩に遊び、志士と交わり、王政復古の大志を実現しようと京に上るも、計画を察知した父親に連れ戻されたそうです。
明治6年、オーストリアの万国博覧会に佐野常民に従って渡航、欧米の製陶技術を学んで帰朝、自ら新しい技術による工芸を試みるとともに、幼少の頃からの絵画への興味から後に図案や工芸デザインにも活路を開きました。
佐賀県を初めとする日本各地に県立工業学校を作り、また女子の工芸教育振興にも尽力しました。


2013年11月撮影

介次郎は妻静子とともに眠っていました。静子は大正6年10月、65歳で没し、介次郎はその後を追うように、翌7年3月に75歳で亡くなっています。


2013年11月撮影

ちなみに、この写真の二人の墓の間の奥のほうに見える厳かに営まれている墓は、夏目漱石の墓です。


2013年11月撮影
  


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2016年02月18日

東京の中の佐賀「青山霊園33 江藤新平と交わった人たち」

大久保利通(1830-1878)については改めて解説する必要はないでしょう。明治の元勲であり、明治維新の功労者の筆頭に数えられます。
大久保については、佐賀では、現在も明治7年の佐賀の乱で、自ら鎮台兵を率いて遠征し、反乱軍を瓦解させるとともに、江藤新平を首謀者と名指しして、簡単な裁判で絞首刑にした人物として語られることが多い人物です。


2009年7月撮影


2009年7月撮影

広い大久保の墓地の敷地内には四面に大久保の事績を刻んだ墓誌が建てられていました。その中には、江藤が乱を起こしたため、自らが県庁に行って、賊徒を征伐し、江藤を捕縛して斬ったことが書かれています。


2011年1月撮影


2009年7月撮影



河野敏鎌(1844-1895)は土佐藩士で、維新政府では政治家として農商務、司法、内務、文部を歴任した人物です。
幕末、勤王党として国事に奔走しましたが、山内容堂が佐幕派を表明すると永牢の宣告を受け、6年の獄中生活を送ります。しかし、江戸幕府が崩壊し明治維新がはじまると、罪を免じられて出獄、大坂に上り、江藤新平の知遇を得ます。
しかし、明治7年佐賀の乱が起こると大久保に従い、乱後の裁判ではかつての上司であった江藤新平を取り調べ、釈明の機会も十分に与えないまま死刑を宣告しました。訊問に際して、敏鎌は江藤を恫喝しましたが、江藤から逆に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝されて恐れおののき、それ以後自らは審理に加わらなかったそうです。


2009年9月撮影


2009年9月撮影


  


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2016年02月04日

東京の中の佐賀「青山霊園33 高木背水・江藤淳」

この「高木家之墓」とのみ記された墓碑は、高木背水の家のものであることを別の資料で知りました。しかし、墓域を見る限りそれを確認できる銘等は確認できませんでした。
高木背水(1877-1943)は佐賀城下松原町に生まれました。鍋島邸の玄関書生をつとめながら絵の修業をはじめた高木は、「背水の陣」の覚悟で画家を志し、上京して曾山(大野)幸彦の大野塾(のちの大幸館)に入門、その後白馬会研究所に入ります。さらにアメリカやイギリスに留学、文展、光風会、太平洋画会展などに出品、「ウインザー橋の朝」、「晩秋」「春風桜花図」などの明るい画風の作品を描きました。


2009年9月撮影


2009年9月撮影

その後に訪れたところ、高木家の墓は、御影石の切り石で囲み、玉砂利を敷いた墓に整備されていました。


2013年1月撮影

江藤淳(1932-1999)は、文学評論家として活躍しました。本名は江頭淳夫といいます。妻慶子を失った翌年、自らを「形骸」と称して後を追うように自殺したことは、社会に大きな衝撃を与えました。
江藤が書いた『一族再会』という本には、深い感銘を受け、またこのブログでも参考にさせていただきました。
江藤の祖母米子は佐賀藩出身の海軍少佐古賀喜三郎の娘であり、この海軍という社会と江頭家は切っても切れない関係があります。江藤は、古賀喜三郎や米子の佐賀に対する複雑な思いをひもときながら、祖母が嫌った江藤新平の江藤という苗字を筆名に選びます。


2009年9月撮影

慶子と淳夫の名前を刻んだ墓誌は、墓石の後に目立たぬように建てられていました。


2009年9月撮影  


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2016年01月21日

東京の中の佐賀「青山霊園32 鍋島藤蔭・幹」

「男爵鍋島家累代墓」という墓石を見つけました。玉垣で囲まれた墓域には石灯籠や樹木が配されています。


2007年11月撮影


2007年11月撮影

その横には、「従五位鍋島藤蔭之墓」がありました。
鍋島家の関係者で、男爵位を受けた者は何人かいますが、藤蔭の墓があることにより、この「鍋島男爵」が鍋島幹であることがわかりました。
藤蔭(1819-1903)は、佐賀藩家老鍋島孫六郎の養女となった鍋島かつを娶って鍋島家の養子となります。かつは貞(1848-1916)を生み、佐賀藩家老伊東祐元の三男貞幹、のち幹を養子とします。
幹(1844-1913)は、幕末には佐賀藩家老、明治元年24歳で仮代官となり、翌年真岡県(栃木県)知事、その後日光県知事、栃木県令、元老院議官、青森県知事、広島県知事を歴任し、男爵位を受けます。その後貴族院議員を務めました。
藤蔭の横にある墓は妻かつ(勝子 -1884)の墓です。


2007年11月撮影
  


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2016年01月07日

東京の中の佐賀「青山霊園31 中島永元」

佐賀藩士で教育者、中島永元の墓は、墓地の中央付近で見つけました。
短冊形の墓域で、周辺を常緑樹で囲んでいます。入口は長辺側にあり、永元や中島家の墓塔は、その片方に寄せて設けられており、残りの空間は空き地のままになっていました。もしかすると、墓石等の整理が行われたのかもしれません。永元の墓は、一番奥に長辺側に向けて営まれていました。


2014年3月撮影

中島永元(ながもと、もりもと、えいげん1844-1922)は、佐賀藩士中島永遠の子として鬼丸小路で生まれました。戊辰戦争以前の永元の学歴等については、さまざまな記載があり判然としませんが、おおむね藩校弘道館や、佐賀藩が設置した蘭学寮で学んだ後、副島種臣、大隈重信らと長﨑に遊学、幕府直轄の洋学校済美館や佐賀藩が設置した致遠館で蘭学、英学を学んだようです。戊辰戦争が起こると江戸に向かい、国事に奔走します。
新政府になると、大学中助教兼中寮長、大寮長になり、明治3年大学出仕として大阪洋学校、南校の事務を行いました。岩倉使節団には文部大丞田中不二麿の随行員として英米の教育を調査しています。その後、文部大書記官、大阪洋学校長、大学分校長、第三高等学校校長などを歴任し、さらに元老院、貴族院議員も務めました。


2014年3月撮影

墓碑には、「錦鶏間祗候貴族院議員従三位勲二等中島永元墓」とあります。錦鶏間祗候とは、1890年(明治23年)に廃止された元老院の議官であった者を処遇するため、同年5月30日に設置された資格です。


2014年3月撮影

永元は、かねて病気療養中のところ、大正11年11月10日朝逝去しました。
妻は東京人シツ(旧姓田中)です。


2014年3月撮影  


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2015年12月24日

東京の中の佐賀「青山霊園30 牟田口元則・元学」

佐賀県士族牟田口元則とその子元学の墓が並ぶ牟田口家の墓を見つけました。それぞれ裏面には600字を超える墓誌が刻まれていました。


2013年4月撮影

牟田口元則(1812-1888)は、通称利左衛門といい、佐賀藩士納富利弼の三男です。同じく佐賀藩の牟田口元規に嗣子がいなかったため娘美尾を娶って養子となりました。23歳の時、鍋島家が海防のため長﨑の香焼島に兵士を配した時、その55人に選ばれました。その後直正の補外の扈従に選ばれ、川副代官、長﨑警備の軽卒隊長となり、佐賀藩が反射炉で大砲を鋳造した際にはその監督も務めました。その後有明海の干拓事業を進めました。戊辰戦争に際しては藩軍糧の監督のため大坂に出張しています。明治8年東京に移ります。
この墓誌は、これまでもたびたび登場いただいた西岡逾明によるものです。逾明は大審院判事等を務めた人ですが、詩書にもすぐれていました。実は元則は逾明の伯父に当たり、その縁でこの墓誌の撰書に当たったようです。




2013年4月撮影

牟田口元学(1843or44-1920)は、通称徳太郎、鷹村と号しました。元則の長子です。戊申戦争に際しては、監軍として奥羽の各地を転戦し功がありました。その後陸前伝令、権少外史などを務めましたが大隈重信の世話で明治4年工務省に出仕しました。その後文部農商務省を歴任、大書記官に任じられ、山林局長となりましたが、大隈が参議を辞め立憲改進党を立てると、元学も官を辞しこれに参加します。その後馬車鉄道会社を創設して社長となり、39年三電鉄合同には推されてその社長も務めました。42年これを辞めると、朝鮮瓦斯電気、小倉鉄道、朝鮮軽便鉄道の創設に尽力、この間、日清生命保険、富士身延鉄道、東洋精糖会社等の取締役も務め、大正5年正五位が授けられ貴族院議員となりました。(他の資料で補いました)
妻は(旧姓石井)啓子といいます。
この墓誌は久米邦武が撰し、武富誠が書しました。


2013年8月撮影

  


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2015年12月10日

東京の中の佐賀「青山霊園29 向井義勝・川浪治倫」

側面に「佐賀縣士族」という文字を見つけ、調べてみると「海軍大尉正六位向井義勝墓」とありました。
向井義勝(?-1890)は、明治7年頃少尉補となり、10年の西南戦争に際しては東艦(あずまかん)に乗り組み、瀬戸内地方の警備につきました。東艦は、鋼鉄製装甲の先駆的な軍艦で、佐賀の乱(佐賀戦争)にも出動しています。
12年頃少尉、16年11月中尉、海軍兵学校の運用術練習艦富士山の員外乗組、18年4月富士山分隊長になります。その後、横須賀屯営分隊長、航海練習艦石川丸分隊長、金剛分隊長、浦賀屯営分隊長等を歴任、22年5月廃職により休職となります。23年2月19日正七位に補されますが、20日没しました。(明治過去帳)


2013年4月撮影


2013年4月撮影

墓碑では、2月19日卒となっていました。


2013年4月撮影

同じく「佐賀縣士族」の記載がある海軍大尉の墓がありました。「従六位川浪治倫墓」とあります。
川浪治倫(?-1894)は明治13年12月、海軍兵学校を卒業(7期)、明治14年頃少尉補を拝命、16年11月少尉になります。武蔵分隊士、龍驤艦機関長心得、葛城分隊長、横須賀屯営勤務、横須賀鎮守府兵器部主幹兼武庫主幹佐世保軍港司令官伝令使、満珠分隊長を歴任しますが、27年9月5日病死します。この日特旨を以て従六位に進められました。(明治過去帳)


2013年8月撮影

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川浪が卒業し、向井が指導した、海軍兵学校、あるいはその前身海軍兵学寮の跡は、中央区築地の国立がんセンターの片隅にありました。


2011年10月撮影

海軍兵学校は、明治21年、呉市の呉鎮守府に近接した広島県の安芸郡江田島町(現在の江田島市)に移転しています。


2010年9月撮影  


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2015年11月26日

東京の中の佐賀「青山霊園28 赤羽平太郎」

赤羽平太郎という人の墓を見つけ墓誌を読んでみると、父は唐津藩士とありました。会津藩士の養子となり、20歳という若さで亡くなった人ですが、その経歴が興味深かったので紹介することにします。(別資料で補足しています)
平太郎(1865-1884)は、唐津藩士で江戸上屋敷詰多賀右金次という人の三男で、母は平岡鑛といいます。兄は日本で最初の児童遊園地「鶴見花月園」を開いた新橋の料亭「花月楼」の主人平岡廣高(1860-1934)です。
右金治は、慶応4年に御供頭筆頭として主君小笠原長行に従い鳥羽伏見の戦で戦いましたが、敗れて主君とともに会津に逃げおち、その後江戸に戻ったそうです。
平太郎が会津藩士赤羽助九郎の嗣子となったのもこうした経緯があったからでしょう。幼にして学を好み、助九郎も常にその孝を称していました。長じて東京外語学校に入り漢英仏の三学を修め、最も算数に詳しかったようです。



2014年3月撮影

明治13年参謀本部が朝鮮語学生を募集すると、平太郎も採用され、3月、釜山に留学します。その後京城に行き、各地を巡歴し地理風土人情を勉強します。
17年10月秋期巡廻を命ぜられ、27日磯林真三(1853-1884)大尉とともに出発します。27日江原地方を廻っている時に、卒業証書が授けられて帰国を命ぜられましたが、平太郎は出張中でこれを知らないまま果川県に来た時に、京城で変があることを耳にします。韓吏を護衛する者は皆乱を避けて仁川に向かいましたが、大尉と平太郎は公使館の安危が不明な状態で逃げるわけにはいかないと、南大門に向かい、蜂起した群衆と戦います。しかし衆寡敵せずで、遂に殺されてしまいます。12月7日のことでした。
その遺体は乱後領事館によって仁川の某地に葬られました。翌1月25日、その遺髪がここに葬られました。


2014年3月撮影

この事変は、甲申政変といいます。金玉均ら朝鮮開化派が日本の支援を受けて保守的な事大党による政権を転覆し、改革を推し進めようとしたものでした。しかし、袁世凱率いる清軍に廃退、政変を主導した金玉均は、日本に亡命、関係者は処刑されました。平太郎らは、このクーデター軍の敗退、逃走する開化派を追う国民らの攻撃に巻き込まれたのです。磯林大尉の死は、事変後日本政府によって政治利用されました。


  


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2015年11月12日

東京の中の佐賀「青山霊園27 古賀素堂・明銓」

古賀素堂・明銓は、古賀精里・侗庵を輩出した古賀家の一族です(大塚先儒墓地の項で既に紹介しています)。
古賀精里(1750-1817)は佐賀藩に生まれ、佐賀藩の教育施設弘道館が設置されるとその教授となり基礎を築きました。47歳の時幕府に招聘されて昌平黌の儒官となり、寛政の三博士の一人に数えられました。
侗庵(1788-1847)はその子で、佐賀に生まれ、父の上京の際に同道し、昌平黌で教鞭を取りました。39歳でウルップ島や択捉島を実地調査し、いち早く開港論を唱えました。


2013年4月撮影

精里の長子穀堂(1777-1836)は、父とともに上京し、在京の儒学者等と交わった後佐賀に帰り弘道館の教授となりました。直正の信任も厚く、彼の著書『済急封事』は、幕末の佐賀藩の改革を方向付けたと言われています。
この似たようなデザインの墓石のうち、左側の墓には「古賀素堂室鍋島氏之墓」とあります。右側の墓には、「正五位古賀明銓之墓」とありました。この二つは、近年再築されたように見えます。資料によると、明銓の墓には彼の事蹟を記した墓誌があったとのことですが現在は見当たりません。年齢差から見て(素堂1811-1858、明銓?-1886)、明銓は素堂の子で、この2つの墓は明銓母子のものでしょうか。


2013年4月撮影

素堂は、穀堂の子で、儒学者でした。通称大一郎といいます。若くして弘道館の中村嘉田に教えを受け、のち肥後に遊学、また昌平黌でも学びました。帰国後弘道館教諭に任じられ、次いで教授となっています。
明銓は、司法行政畑を歩きました。明治7年頃司法権大解部になり、9年頃司法大録、10年判事補、その後名古屋裁判所、東京裁判所、東京控訴裁判所等に務め、18年広島重罪裁判長(広島控訴院評定官)となりましたが翌年卒します。正六位でした。


2013年4月撮影  


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2015年10月29日

東京の中の佐賀「青山霊園26 松村義櫢」

松村義櫢(ギソウ1849-1884)の墓は、松村家の墓の一隅にありますが、「海軍大尉正七位勲六等松村義櫢墓」と書かれた屋根形の頂部を持つ柱状の墓は、人目を惹くものがあり、墓誌を読んでみると佐賀藩士出身の人物であることがわかりました。あまり知られていない人ですが、調べて見ると面白いことがわかったので紹介します。


2013年4月撮影


2013年4月撮影

墓誌は、「松村義櫢墓碑」の篆額がある立派なものです。この書は海軍中将で日本海軍の創設に尽力した旧佐賀藩士中牟田倉之助によるものです。撰文及び書は、海軍中将で、貴族院勅選議員なども務めた伊藤雋吉(シュンキチ 1840-1921)によるものです。
墓誌によると、義櫢は佐賀藩士松村義之の長男で、嘉永2年4月12日に生まれました。7歳の時に母を失って祖伯父の家で養われました。18歳の時藩命により海軍術を学び、明治維新に当たって佐賀藩が京師に上る際に従軍し、その後鳥羽伏見の戦いにも参加し功績がありました。
廃藩になると、上京して西学を修め、少尉、そして中尉となります。明治9年の萩の乱に当たっては、九州地域の動向を探るため九州に下向します。さらに西南の役に当たっては、海軍側の総司令川村純義海軍中将に従い秘書を兼ねました。


2013年4月撮影

明治13年海軍中秘書、その後、大尉、兵学校勤務を経て、軍艦筑波の乗組海軍大尉となります。そして、明治17年の筑波による太平洋航海に参加し、ニュージーランド、チリ、そしてハワイに寄港した後、品川に戻る途中義櫢は病に冒され、帰らぬ人となります。
さて、私が興味を持ったのは、この筑波の実験航海です。実はこの航海は、明治初期に海軍を悩ませた脚気対策における大きな画期となった航海でした。そして、この17年の航海は、その対策が成功するかどうかを見極める重要な航海だったのです。記録では、その結果死亡者は1名のみで、それも脚気による死亡ではなく腸チフスによるものだとされました。のちにこの結果は「脚気1名」と訂正されましたが、いずれにせよ兵食対策による脚気予防が成功した瞬間でした。私が調べた範囲ではこの1名の死亡者の名前を記載した資料は見つかりませんでしたが、この墓誌により、それが義櫢であったことが知れるのです。


2013年4月撮影


2013年4月撮影


義櫢は、原氏の妻を娶り、4男2女を設けました。長男純一(1871-1935)も海軍に入り、宗谷・生駒・霧島の艦長、第一潜水戦隊司令官などを歴任しました。潜水艦に関する権威として知られます。三男は昇、四男は茂です。

参考 岡村健:軍鑑「筑波」―偉大なる航海―  


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2015年10月15日

東京の中の佐賀「青山霊園25 坂本復経・今泉宗一」

坂本復経(1864?-1898)は、工学博士で建築家です。
復経は、長崎県人で、佐賀藩士族の家に生まれ、明治の初めに一旦燈台学校(?、裏面墓誌)に入りましたが、間もなく工学専門の官費生となります。明治14年造家科を卒業、工学士に選ばれ、工部七等技手として後に帝国ホテルを設計した渡辺譲、横浜郵便局を設計した左立七次郎らとともに営繕局に勤務します。その後、白川宮(北白川宮能久親王?)の建築に従事し、四等技手に進みます。
18年12月工部省が廃止されると内務技師に補されましたが、間もなくこれを辞し、横浜の建築請負師清水満之助(後清水建設社長)とともに欧米諸国を勉強のため歴訪します。
鍋島直大の永田町鍋島邸が建築されることになると、これを請け負った現在の清水建設で、辰野金吾の勧めでその初代技術長になり、設計を行いました。しかし、明治21年5月30日、その竣工を見ることなく34の若さで病死します。鍋島邸西洋館は、その後、辰野金吾(一時、片山東熊)が計画監督となり、明治25年に落成しました。


2013年8月撮影

墓碑の裏面には復経の墓誌が刻まれています。
復経の妻栄子は、旧姓森永で、一男一女をもうけました。長男斗一は、復経が急死した時、まだ五歳でした。


2013年8月撮影

今泉家の墓地には、「今泉家之墓」のほかに、今泉勇慈、今泉宗一の角柱型墓碑と、今泉友一郎の板碑型墓碑がありました。
中央の今泉勇慈(1843-1882)は、佐賀藩士で、陸軍歩兵中尉だった人です。明治15年6月に40歳で病死します。この時歩兵第一聯隊第一大隊小隊長でした。明治13年頃従七位に叙されています。


2013年8月撮影

左側の今泉宗一(1879-1912)は、年齢から見て勇慈の子だと思われます。明治39年、東京帝国大学工科大学採鉱冶金科を卒業、鉱山監督署技師などに従事したようです。明治41年に仙台高等学校教授になり、明治43年から44年には大阪高等工業学校教授を務めました。45年7月17日に34歳で亡くなります。正七位に叙されました。妻は啓です。


2013年8月撮影
  


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2015年10月01日

東京の中の佐賀「青山霊園24 伊東武重」

伊東武重(1831-1889)は、新政府において地方官を務めた後、大蔵省に入り出納局長などを歴任しました。
武重は、天保2年8月28日、佐賀藩医相良柳庵(長美)の次男として八戸に生まれました。相良家は代々柳庵を名乗り、長美は六世柳庵です。長男安定(寛斎)は、直正の侍医を務めました。弟知安は蘭法医として佐賀藩医を務め、さらに日本の近代医学制度の創設に貢献、文部省築造局長兼医務局長として医学校及び大学病院(現在の東京大学医学部)の新築に当たりました。末弟の元貞(1841-1875)は、現在の東京大学、大阪医学校の中教授を務めた後、プロシアのベルリン大学に医学留学しましたが、解剖実習中の感染症により客死します。
武重は、最初善次と称し、枝吉神陽の義祭同盟の最初の集まり(嘉永3年)に、枝吉次郎(副島種臣)、島団右衛門(義勇)、大木幡六(喬任)らとともに参加しています。
その後佐賀藩士伊東祐清の養子となります。


2013年8月撮影

明治4年11月、豊前の豊津、中津、千束県が統合されて小倉県が置かれましたが、その参事に武重が任命されています。
明治7年頃、記録寮に五等出仕します。その後、出納寮や国債寮に出仕し、10年大蔵権大書記官に任じられ出納局長に補されます。さらに大書記官に補され、明治15年には記録局長になります。17年勲六等に叙され、単光旭日章を賜りました。20年4月9日、特旨を以て正五位に進みましたが、13日小石川の自宅で卒しました。


2013年8月撮影

武重の妻は安子(1839-1918)といいました。


2013年8月撮影

武重の長男、祐穀(1860又は1861-1921)は、統計学の大家として知られています。内閣統計局に勤め、欧米の統計の実際を視察し、日本の統計学に活用しました。墓誌には「万延元年九月五日生」とあります。


2013年8月撮影

墓域内には、武重の養母梶子の墓もありました。


2013年8月撮影  


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2015年09月17日

東京の中の佐賀「青山霊園23 荒木博臣」

荒木博臣(1837-1913)は、戊辰戦争では政府軍として戦い、新政府においては大審院判事を務めました。
荒木家の墓は、青山霊園の南北メインストリートに面しており、墓域内に立つ巨大な墓誌は、往来する人の注意を引きます。私も、気にかかって墓誌を読み、これが佐賀藩出身の人の墓であることを知りました。


2013年1月撮影


2013年1月撮影

博臣の墓誌「壽藏碑」は、博臣と同じく大審院判事や宮中顧問官などを務めた三島毅が撰し、帝室博物館総長や宮中顧問官を務めた股野琢が揮毫しています。篆額は、鍋島直大によるものです。


2013年1月撮影

墓誌により、博臣の経歴を追ってみましょう。(他の資料で補足しました)
博臣は天保8年10月7日に佐賀藩士山口志設軒仲の子として生まれました。最初の名は権六といい、白縫と号しました。万延年頃博臣は藩校弘道館に在籍していました。枝吉神陽の義祭同盟にも参加しており、桜田門外の変のことを耳にして慷慨していましたが、藩命により江戸に遊学することになると、先に上京していた友人中野方蔵とともに昌平黌に学び、国事を論じます。


2013年4月撮影

しかし、文久2年、方蔵が坂下門外の変に巻き込まれると、博臣は嫌疑が及ぶのを恐れて奥羽へ行き、石巻や遠野を巡ります。翌年下関戦争が起こると入京し、討幕運動に身を投じます。文久3年の八月十八日の政変で三條公ら七卿が京を落ちて西奔すると、これを追って長州へ行きますが、長州に入れず、一旦佐賀藩に戻ります。元治元年、荒木氏の養子となります。
慶応3年、佐賀藩兵を督して入京し、その後奥羽戦争に参加し藩兵を率いて北陸道を転戦。乱平定後は、宮谷県大参事、長野・筑摩県権参事として、民政に務め、明治5年司法省に入り、大審院判事、大阪控訴院評定官、再び大審院判事から高等官を務めます。從四位に叙されました。
前妻(津天)の間に虎太郎、後妻大塚阿佐(浅)の間に四男三女を設けますが、長男経吉、次男熊次郎、三男龍三郎、三女房は夭折します。虎太郎は法学者。末男三雄は別家を立てます。長女茂は森家に、次女榮は山口家に嫁ぎます。

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博臣の名は、虎ノ門にある「贈正四位江藤新平君遭難遺址碑」の中に見えます。
佐賀藩邸で博臣らと酒を飲んでいた江藤が、藩邸を出た所で同藩の暴漢に襲われた経緯を刻したものです。この碑の建立には、博臣の子三雄が関わりました。


2006年11月撮影

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博臣の名が世に知られているのは、娘茂(志げ、後茂子)が森鴎外に嫁いだためです。茂の最初の結婚は、相手の女遊びが原因で二十日で破たんしており、鴎外との結婚は再婚になります。鴎外も40才になってからの再婚でした。21才の茂は美しかったらしく、鴎外自身「良イ年ヲシテ少々美術品ラシキ妻ヲ相迎ヘ」と親友賀古に伝えています。しかし、この結婚は、姑などとの関係で、大変苦労の多いものだったようです。
写真は、志げとの婚礼が行われた鴎外の居宅「観潮楼」の跡に建てられた千駄木の鴎外記念館です。


2014年3月撮影  


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2015年09月03日

東京の中の佐賀「青山霊園22 千葉胤明」

千葉胤明(1864-1953)は、歌人として知られています。
胤明は、現在の佐賀市久保田町に生まれました。父は桂園派の歌人賢隆坊元祐です。胤明は、佐野常民に師事し、明治初期の美術団体龍池会に勤めながら、鹿児島出身の高崎正風に歌を学んだそうです。その後、農務省博覧会、内国博覧会、パリ万国博覧会事務などを行っていましたが、1892年宮内省御歌所に採用されます。
桂園派の人々は、明治政府の歌道御用掛や御歌所などの要職に採用されており、正風も御歌所初代所長を勤めていたため、胤明の御歌所採用は正風による勧めがあったのでしょう。


2009年9月撮影

胤明は、1908年御歌所寄人になり、1916年から1919年に明治天皇御製編纂に従事、1936年から1944年には歌会始の点者を務めます。1937年帝国芸術院会員になり、1946年従三位に叙せられました。


2013年1月撮影

「千葉家之墓」と書かれた墓碑の正面には、胤明の歌碑がありました。
「新しき國につくさむ むつみあひ ともにはたらき 共に栄えて」とあります。
胤明は書家としても有名で、有名子、春翠などと号しました。


2009年9月撮影

裏には
「昭和二十六年六月十一日/三期奉仕元御歌所寄人/日本芸術院会員/従三位平胤明/八十八歳」とありました。


2009年9月撮影  


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2015年08月20日

東京の中の佐賀「青山霊園21 円城寺清」

円城寺清(1870-1908)は、政界を舞台に活躍したジャーナリストで、行動する言論人と呼ばれました。
清は、小城郡晴田村(現在の小城市小城町)に生まれ、佐賀尋常中等学校に入りましたが、ストライキのため退学したそうです。明治25年、早稲田大学の前身東京専門学校を卒業して郵便報知新聞に入りました。郵便報知新聞は、明治14年に大隈重信らによって買収され、立憲改進党の機関紙となっていました。清はその後、改進党党報局に移り、また改進党の東京支部常務幹事を務めます。この頃から、各地に遊説して党勢の拡張に尽くしましたが、改進党分裂後は、憲政本党党報の主任記者、明治32年には万朝報記者に転じ、健筆を揮いました。普通選挙同盟会、非増租同盟会、国民同盟会、対露同志会、講話問題同盟連合会、同志記者倶楽部、国民後援会、丁未倶楽部など多くの組織にも関係し、河野広中、島田三郎らとともに政界刷新を企てました。


2014年3月撮影

円城寺天山と号しました。


2014年3月撮影

裏には「明治41季10月21日歿」とあります(22日没とする資料もあります)。将来を期待されましたが、39才の若さで亡くなりました。


2014年3月撮影  


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2015年08月06日

東京の中の佐賀「青山霊園20 江副廉蔵」

江副廉蔵(1849-1920)は、波瀾万丈の生涯を送った人物です。
廉蔵は嘉永元年12月26日(1849年1月20日)に佐賀城下の鬼丸で生まれました。長崎の致遠館で英学を修めた後、三重津の海軍所で英語を教えたそうです。明治2年、佐賀藩の軍鑑電流丸の艦長真木長義に従って長崎に航海した時、こっそり英国船に乗り込んで上海に密航し、佐賀藩が上海に開いていたと思われる「三松洋行」という商社に入って貿易に従事、たまたまシンガポールで開催された博覧会に有田焼を出品、タイの国王が視察するなど名声を博したようです。


2013年1月撮影

その後帰国し、北海道開拓使、参謀本部などに出仕していましたが、役人勤めは廉蔵の志とは違っていたようで、辞職してアメリカのフィラデルフィアで開催されている万国博覧会に参加する有田香蘭社の社員に通訳として同行、その後ニューヨークに商社を設立、東京に米国産煙草の販売会社を設立するとともに、日本の美術品を輸出販売を手がけました。いわば日米貿易の先駆者です。その後、朝鮮、満州に渡って煙草生産や販売を手がけました。


2009年9月撮影

墓には「大慈院殿直指謙照居士」と刻まれ、裏には廉蔵の事績が刻まれていました。右側には妻久満子(1856?-1912)の墓がありました。


2009年9月撮影

江副家の墓には、廉蔵らの仏式の墓のほかに、キリスト教式の墓もありました。右側は江副家を継いだ、江副隆一の墓です。


2009年9月撮影

隆一(?-1935)は、廉蔵の子で、アメリカのマンリュース士官学校で学びました。その後江副商店を経営しましたが、昭和の大恐慌に巻き込まれ、江副商店は倒産してしまいます。
しかし、彼らの国際性は江副家の子供たちに受け継がれ、現在新宿の高田馬場で江副学園新宿日本語学校を経営され、日本で活躍したい海外の人たちに日本語を教えられています。




2010年2月撮影

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廉蔵の姉美登(美登利・美登子)は、大隈重信の最初の夫人で、一子熊子をもうけています。


2013年1月撮影  


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2015年07月23日

東京の中の佐賀「青山霊園19 長森敬斐・成富清風」

青山霊園にあるお墓は、いつまでもそこにあるわけではないようです。私が個別に興味を持って、調べたいくつかの著名人のお墓も、既存の資料に記載されていた場所をいくら探しても見つからないものがありました。
長森敬斐(1833-1902)は、佐賀藩士で、加賀伊卿の二男として生まれ、長森家を継ぎます。江戸に遊学して攘夷運動にも参加したようですが、維新政府には江藤新平の勧めで左院議官となり、法制を職掌し、民法、商法、会社法、破産法、違詮罪などの制定に携わりました。『大小銃製造録』や「内外台場改策始末」等の編集にも携わっています。
敬斐の墓は、青山霊園の北東側にありましたが、最近改めて調査をしに行ったところ、かつてあったあたりを随分探してみたのですが、どうにも見当たりません。
多分、移設されたのでしょう。


2009年9月撮影

敬斐の墓には、正面に「正五位勲五等長森敬斐君墓」とあり、墓石の裏に墓誌がありました。この墓誌は、久米邦武の撰、日下部東作の書によるものです。


2009年9月撮影

敬斐の墓の左には「敬斐先生室秀子墓」があり、その裏には草書体の墓誌がありました。秀子(1851-1933)は佐賀鬼丸で長森家の息女として生まれ、敬斐を夫として迎えます。渋谷の富ヶ谷にて83才で没しました。


2009年9月撮影

成富清風(1838-1882)も、佐賀藩士で、維新政府のもとで清国等に留学、その後外務省に出仕し、明治9年千島・樺太交換条約締結後のサハリン州コルサコフ副領事として赴任、翌年には領事となりました。12年病気により辞任、13年鍋島直大が特命全権公使イタリア駐剳を命じられると、清風も随行しますが、この時も病により3年で帰京しました。
清風の墓も、青山霊園の鍋島家墓地に近い所にありましたが、今は墓地整理にかかり、その場所にはありません。
(写真は、平成17年頃本丸歴史館で調査を行った時のものです)


  


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2015年07月09日

東京の中の佐賀「青山霊園18 石丸安世」

青山霊園に戻ってきました。前回までに紹介できなかった方の墓を少し散歩してみましょう。
石丸安世(1834-1902)は、「日本電信の祖」などと呼ばれます。日本の電信の重要幹線である東京―長崎線、東京―青森線の設置に尽力しました。
安世は、佐賀城下本庄町に生まれました。長崎海軍伝習所に学び、長崎で知り合ったグラバーの斡旋で、同じ佐賀藩の馬渡八郎とともにイギリスに密航します。帰国後は有田陶業の指導や町民の教育に努めていましたが、明治4年工部省に出仕すると、電信頭として日本の電信組織の創設に努めました。


2013年1月撮影

その後、大阪造幣局長、小浜造船所長なども務めます。のち元老院議官に任命されました。死後従三位に叙されました。


2013年1月撮影

安世の墓の右に「室愛子之墓」があります。愛子(1847-1913)は生前は「阿以」と表記されていたようです。長崎西浜町の住で、長崎士族中村吾道の従妹だそうです。安世が長崎留学中に知り合ったのでしょうか。


2013年1月撮影

墓域内に立つ「経綸之碑」は、安世の生涯を刻んだものです。撰文は久米邦武、篆額は大隈重信、書は西岡逾明によるものです。経綸は、安世がイギリスから帰国後、現在の伊万里市久原に開いた私塾「経綸舎」の名前と共通します。安世はこの「経綸」という言葉が好きだったのでしょうか。


2013年8月撮影  


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