2016年02月18日

東京の中の佐賀「青山霊園33 江藤新平と交わった人たち」

大久保利通(1830-1878)については改めて解説する必要はないでしょう。明治の元勲であり、明治維新の功労者の筆頭に数えられます。
大久保については、佐賀では、現在も明治7年の佐賀の乱で、自ら鎮台兵を率いて遠征し、反乱軍を瓦解させるとともに、江藤新平を首謀者と名指しして、簡単な裁判で絞首刑にした人物として語られることが多い人物です。


2009年7月撮影


2009年7月撮影

広い大久保の墓地の敷地内には四面に大久保の事績を刻んだ墓誌が建てられていました。その中には、江藤が乱を起こしたため、自らが県庁に行って、賊徒を征伐し、江藤を捕縛して斬ったことが書かれています。


2011年1月撮影


2009年7月撮影



河野敏鎌(1844-1895)は土佐藩士で、維新政府では政治家として農商務、司法、内務、文部を歴任した人物です。
幕末、勤王党として国事に奔走しましたが、山内容堂が佐幕派を表明すると永牢の宣告を受け、6年の獄中生活を送ります。しかし、江戸幕府が崩壊し明治維新がはじまると、罪を免じられて出獄、大坂に上り、江藤新平の知遇を得ます。
しかし、明治7年佐賀の乱が起こると大久保に従い、乱後の裁判ではかつての上司であった江藤新平を取り調べ、釈明の機会も十分に与えないまま死刑を宣告しました。訊問に際して、敏鎌は江藤を恫喝しましたが、江藤から逆に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝されて恐れおののき、それ以後自らは審理に加わらなかったそうです。


2009年9月撮影


2009年9月撮影


  


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2016年02月04日

東京の中の佐賀「青山霊園33 高木背水・江藤淳」

この「高木家之墓」とのみ記された墓碑は、高木背水の家のものであることを別の資料で知りました。しかし、墓域を見る限りそれを確認できる銘等は確認できませんでした。
高木背水(1877-1943)は佐賀城下松原町に生まれました。鍋島邸の玄関書生をつとめながら絵の修業をはじめた高木は、「背水の陣」の覚悟で画家を志し、上京して曾山(大野)幸彦の大野塾(のちの大幸館)に入門、その後白馬会研究所に入ります。さらにアメリカやイギリスに留学、文展、光風会、太平洋画会展などに出品、「ウインザー橋の朝」、「晩秋」「春風桜花図」などの明るい画風の作品を描きました。


2009年9月撮影


2009年9月撮影

その後に訪れたところ、高木家の墓は、御影石の切り石で囲み、玉砂利を敷いた墓に整備されていました。


2013年1月撮影

江藤淳(1932-1999)は、文学評論家として活躍しました。本名は江頭淳夫といいます。妻慶子を失った翌年、自らを「形骸」と称して後を追うように自殺したことは、社会に大きな衝撃を与えました。
江藤が書いた『一族再会』という本には、深い感銘を受け、またこのブログでも参考にさせていただきました。
江藤の祖母米子は佐賀藩出身の海軍少佐古賀喜三郎の娘であり、この海軍という社会と江頭家は切っても切れない関係があります。江藤は、古賀喜三郎や米子の佐賀に対する複雑な思いをひもときながら、祖母が嫌った江藤新平の江藤という苗字を筆名に選びます。


2009年9月撮影

慶子と淳夫の名前を刻んだ墓誌は、墓石の後に目立たぬように建てられていました。


2009年9月撮影  


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2016年01月21日

東京の中の佐賀「青山霊園32 鍋島藤蔭・幹」

「男爵鍋島家累代墓」という墓石を見つけました。玉垣で囲まれた墓域には石灯籠や樹木が配されています。


2007年11月撮影


2007年11月撮影

その横には、「従五位鍋島藤蔭之墓」がありました。
鍋島家の関係者で、男爵位を受けた者は何人かいますが、藤蔭の墓があることにより、この「鍋島男爵」が鍋島幹であることがわかりました。
藤蔭(1819-1903)は、佐賀藩家老鍋島孫六郎の養女となった鍋島かつを娶って鍋島家の養子となります。かつは貞(1848-1916)を生み、佐賀藩家老伊東祐元の三男貞幹、のち幹を養子とします。
幹(1844-1913)は、幕末には佐賀藩家老、明治元年24歳で仮代官となり、翌年真岡県(栃木県)知事、その後日光県知事、栃木県令、元老院議官、青森県知事、広島県知事を歴任し、男爵位を受けます。その後貴族院議員を務めました。
藤蔭の横にある墓は妻かつ(勝子 -1884)の墓です。


2007年11月撮影
  


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2016年01月07日

東京の中の佐賀「青山霊園31 中島永元」

佐賀藩士で教育者、中島永元の墓は、墓地の中央付近で見つけました。
短冊形の墓域で、周辺を常緑樹で囲んでいます。入口は長辺側にあり、永元や中島家の墓塔は、その片方に寄せて設けられており、残りの空間は空き地のままになっていました。もしかすると、墓石等の整理が行われたのかもしれません。永元の墓は、一番奥に長辺側に向けて営まれていました。


2014年3月撮影

中島永元(ながもと、もりもと、えいげん1844-1922)は、佐賀藩士中島永遠の子として鬼丸小路で生まれました。戊辰戦争以前の永元の学歴等については、さまざまな記載があり判然としませんが、おおむね藩校弘道館や、佐賀藩が設置した蘭学寮で学んだ後、副島種臣、大隈重信らと長﨑に遊学、幕府直轄の洋学校済美館や佐賀藩が設置した致遠館で蘭学、英学を学んだようです。戊辰戦争が起こると江戸に向かい、国事に奔走します。
新政府になると、大学中助教兼中寮長、大寮長になり、明治3年大学出仕として大阪洋学校、南校の事務を行いました。岩倉使節団には文部大丞田中不二麿の随行員として英米の教育を調査しています。その後、文部大書記官、大阪洋学校長、大学分校長、第三高等学校校長などを歴任し、さらに元老院、貴族院議員も務めました。


2014年3月撮影

墓碑には、「錦鶏間祗候貴族院議員従三位勲二等中島永元墓」とあります。錦鶏間祗候とは、1890年(明治23年)に廃止された元老院の議官であった者を処遇するため、同年5月30日に設置された資格です。


2014年3月撮影

永元は、かねて病気療養中のところ、大正11年11月10日朝逝去しました。
妻は東京人シツ(旧姓田中)です。


2014年3月撮影  


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2015年12月24日

東京の中の佐賀「青山霊園30 牟田口元則・元学」

佐賀県士族牟田口元則とその子元学の墓が並ぶ牟田口家の墓を見つけました。それぞれ裏面には600字を超える墓誌が刻まれていました。


2013年4月撮影

牟田口元則(1812-1888)は、通称利左衛門といい、佐賀藩士納富利弼の三男です。同じく佐賀藩の牟田口元規に嗣子がいなかったため娘美尾を娶って養子となりました。23歳の時、鍋島家が海防のため長﨑の香焼島に兵士を配した時、その55人に選ばれました。その後直正の補外の扈従に選ばれ、川副代官、長﨑警備の軽卒隊長となり、佐賀藩が反射炉で大砲を鋳造した際にはその監督も務めました。その後有明海の干拓事業を進めました。戊辰戦争に際しては藩軍糧の監督のため大坂に出張しています。明治8年東京に移ります。
この墓誌は、これまでもたびたび登場いただいた西岡逾明によるものです。逾明は大審院判事等を務めた人ですが、詩書にもすぐれていました。実は元則は逾明の伯父に当たり、その縁でこの墓誌の撰書に当たったようです。




2013年4月撮影

牟田口元学(1843or44-1920)は、通称徳太郎、鷹村と号しました。元則の長子です。戊申戦争に際しては、監軍として奥羽の各地を転戦し功がありました。その後陸前伝令、権少外史などを務めましたが大隈重信の世話で明治4年工務省に出仕しました。その後文部農商務省を歴任、大書記官に任じられ、山林局長となりましたが、大隈が参議を辞め立憲改進党を立てると、元学も官を辞しこれに参加します。その後馬車鉄道会社を創設して社長となり、39年三電鉄合同には推されてその社長も務めました。42年これを辞めると、朝鮮瓦斯電気、小倉鉄道、朝鮮軽便鉄道の創設に尽力、この間、日清生命保険、富士身延鉄道、東洋精糖会社等の取締役も務め、大正5年正五位が授けられ貴族院議員となりました。(他の資料で補いました)
妻は(旧姓石井)啓子といいます。
この墓誌は久米邦武が撰し、武富誠が書しました。


2013年8月撮影

  


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2015年12月10日

東京の中の佐賀「青山霊園29 向井義勝・川浪治倫」

側面に「佐賀縣士族」という文字を見つけ、調べてみると「海軍大尉正六位向井義勝墓」とありました。
向井義勝(?-1890)は、明治7年頃少尉補となり、10年の西南戦争に際しては東艦(あずまかん)に乗り組み、瀬戸内地方の警備につきました。東艦は、鋼鉄製装甲の先駆的な軍艦で、佐賀の乱(佐賀戦争)にも出動しています。
12年頃少尉、16年11月中尉、海軍兵学校の運用術練習艦富士山の員外乗組、18年4月富士山分隊長になります。その後、横須賀屯営分隊長、航海練習艦石川丸分隊長、金剛分隊長、浦賀屯営分隊長等を歴任、22年5月廃職により休職となります。23年2月19日正七位に補されますが、20日没しました。(明治過去帳)


2013年4月撮影


2013年4月撮影

墓碑では、2月19日卒となっていました。


2013年4月撮影

同じく「佐賀縣士族」の記載がある海軍大尉の墓がありました。「従六位川浪治倫墓」とあります。
川浪治倫(?-1894)は明治13年12月、海軍兵学校を卒業(7期)、明治14年頃少尉補を拝命、16年11月少尉になります。武蔵分隊士、龍驤艦機関長心得、葛城分隊長、横須賀屯営勤務、横須賀鎮守府兵器部主幹兼武庫主幹佐世保軍港司令官伝令使、満珠分隊長を歴任しますが、27年9月5日病死します。この日特旨を以て従六位に進められました。(明治過去帳)


2013年8月撮影

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川浪が卒業し、向井が指導した、海軍兵学校、あるいはその前身海軍兵学寮の跡は、中央区築地の国立がんセンターの片隅にありました。


2011年10月撮影

海軍兵学校は、明治21年、呉市の呉鎮守府に近接した広島県の安芸郡江田島町(現在の江田島市)に移転しています。


2010年9月撮影  


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2015年11月26日

東京の中の佐賀「青山霊園28 赤羽平太郎」

赤羽平太郎という人の墓を見つけ墓誌を読んでみると、父は唐津藩士とありました。会津藩士の養子となり、20歳という若さで亡くなった人ですが、その経歴が興味深かったので紹介することにします。(別資料で補足しています)
平太郎(1865-1884)は、唐津藩士で江戸上屋敷詰多賀右金次という人の三男で、母は平岡鑛といいます。兄は日本で最初の児童遊園地「鶴見花月園」を開いた新橋の料亭「花月楼」の主人平岡廣高(1860-1934)です。
右金治は、慶応4年に御供頭筆頭として主君小笠原長行に従い鳥羽伏見の戦で戦いましたが、敗れて主君とともに会津に逃げおち、その後江戸に戻ったそうです。
平太郎が会津藩士赤羽助九郎の嗣子となったのもこうした経緯があったからでしょう。幼にして学を好み、助九郎も常にその孝を称していました。長じて東京外語学校に入り漢英仏の三学を修め、最も算数に詳しかったようです。



2014年3月撮影

明治13年参謀本部が朝鮮語学生を募集すると、平太郎も採用され、3月、釜山に留学します。その後京城に行き、各地を巡歴し地理風土人情を勉強します。
17年10月秋期巡廻を命ぜられ、27日磯林真三(1853-1884)大尉とともに出発します。27日江原地方を廻っている時に、卒業証書が授けられて帰国を命ぜられましたが、平太郎は出張中でこれを知らないまま果川県に来た時に、京城で変があることを耳にします。韓吏を護衛する者は皆乱を避けて仁川に向かいましたが、大尉と平太郎は公使館の安危が不明な状態で逃げるわけにはいかないと、南大門に向かい、蜂起した群衆と戦います。しかし衆寡敵せずで、遂に殺されてしまいます。12月7日のことでした。
その遺体は乱後領事館によって仁川の某地に葬られました。翌1月25日、その遺髪がここに葬られました。


2014年3月撮影

この事変は、甲申政変といいます。金玉均ら朝鮮開化派が日本の支援を受けて保守的な事大党による政権を転覆し、改革を推し進めようとしたものでした。しかし、袁世凱率いる清軍に廃退、政変を主導した金玉均は、日本に亡命、関係者は処刑されました。平太郎らは、このクーデター軍の敗退、逃走する開化派を追う国民らの攻撃に巻き込まれたのです。磯林大尉の死は、事変後日本政府によって政治利用されました。


  


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2015年11月12日

東京の中の佐賀「青山霊園27 古賀素堂・明銓」

古賀素堂・明銓は、古賀精里・侗庵を輩出した古賀家の一族です(大塚先儒墓地の項で既に紹介しています)。
古賀精里(1750-1817)は佐賀藩に生まれ、佐賀藩の教育施設弘道館が設置されるとその教授となり基礎を築きました。47歳の時幕府に招聘されて昌平黌の儒官となり、寛政の三博士の一人に数えられました。
侗庵(1788-1847)はその子で、佐賀に生まれ、父の上京の際に同道し、昌平黌で教鞭を取りました。39歳でウルップ島や択捉島を実地調査し、いち早く開港論を唱えました。


2013年4月撮影

精里の長子穀堂(1777-1836)は、父とともに上京し、在京の儒学者等と交わった後佐賀に帰り弘道館の教授となりました。直正の信任も厚く、彼の著書『済急封事』は、幕末の佐賀藩の改革を方向付けたと言われています。
この似たようなデザインの墓石のうち、左側の墓には「古賀素堂室鍋島氏之墓」とあります。右側の墓には、「正五位古賀明銓之墓」とありました。この二つは、近年再築されたように見えます。資料によると、明銓の墓には彼の事蹟を記した墓誌があったとのことですが現在は見当たりません。年齢差から見て(素堂1811-1858、明銓?-1886)、明銓は素堂の子で、この2つの墓は明銓母子のものでしょうか。


2013年4月撮影

素堂は、穀堂の子で、儒学者でした。通称大一郎といいます。若くして弘道館の中村嘉田に教えを受け、のち肥後に遊学、また昌平黌でも学びました。帰国後弘道館教諭に任じられ、次いで教授となっています。
明銓は、司法行政畑を歩きました。明治7年頃司法権大解部になり、9年頃司法大録、10年判事補、その後名古屋裁判所、東京裁判所、東京控訴裁判所等に務め、18年広島重罪裁判長(広島控訴院評定官)となりましたが翌年卒します。正六位でした。


2013年4月撮影  


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2015年10月29日

東京の中の佐賀「青山霊園26 松村義櫢」

松村義櫢(ギソウ1849-1884)の墓は、松村家の墓の一隅にありますが、「海軍大尉正七位勲六等松村義櫢墓」と書かれた屋根形の頂部を持つ柱状の墓は、人目を惹くものがあり、墓誌を読んでみると佐賀藩士出身の人物であることがわかりました。あまり知られていない人ですが、調べて見ると面白いことがわかったので紹介します。


2013年4月撮影


2013年4月撮影

墓誌は、「松村義櫢墓碑」の篆額がある立派なものです。この書は海軍中将で日本海軍の創設に尽力した旧佐賀藩士中牟田倉之助によるものです。撰文及び書は、海軍中将で、貴族院勅選議員なども務めた伊藤雋吉(シュンキチ 1840-1921)によるものです。
墓誌によると、義櫢は佐賀藩士松村義之の長男で、嘉永2年4月12日に生まれました。7歳の時に母を失って祖伯父の家で養われました。18歳の時藩命により海軍術を学び、明治維新に当たって佐賀藩が京師に上る際に従軍し、その後鳥羽伏見の戦いにも参加し功績がありました。
廃藩になると、上京して西学を修め、少尉、そして中尉となります。明治9年の萩の乱に当たっては、九州地域の動向を探るため九州に下向します。さらに西南の役に当たっては、海軍側の総司令川村純義海軍中将に従い秘書を兼ねました。


2013年4月撮影

明治13年海軍中秘書、その後、大尉、兵学校勤務を経て、軍艦筑波の乗組海軍大尉となります。そして、明治17年の筑波による太平洋航海に参加し、ニュージーランド、チリ、そしてハワイに寄港した後、品川に戻る途中義櫢は病に冒され、帰らぬ人となります。
さて、私が興味を持ったのは、この筑波の実験航海です。実はこの航海は、明治初期に海軍を悩ませた脚気対策における大きな画期となった航海でした。そして、この17年の航海は、その対策が成功するかどうかを見極める重要な航海だったのです。記録では、その結果死亡者は1名のみで、それも脚気による死亡ではなく腸チフスによるものだとされました。のちにこの結果は「脚気1名」と訂正されましたが、いずれにせよ兵食対策による脚気予防が成功した瞬間でした。私が調べた範囲ではこの1名の死亡者の名前を記載した資料は見つかりませんでしたが、この墓誌により、それが義櫢であったことが知れるのです。


2013年4月撮影


2013年4月撮影


義櫢は、原氏の妻を娶り、4男2女を設けました。長男純一(1871-1935)も海軍に入り、宗谷・生駒・霧島の艦長、第一潜水戦隊司令官などを歴任しました。潜水艦に関する権威として知られます。三男は昇、四男は茂です。

参考 岡村健:軍鑑「筑波」―偉大なる航海―  


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2015年10月15日

東京の中の佐賀「青山霊園25 坂本復経・今泉宗一」

坂本復経(1864?-1898)は、工学博士で建築家です。
復経は、長崎県人で、佐賀藩士族の家に生まれ、明治の初めに一旦燈台学校(?、裏面墓誌)に入りましたが、間もなく工学専門の官費生となります。明治14年造家科を卒業、工学士に選ばれ、工部七等技手として後に帝国ホテルを設計した渡辺譲、横浜郵便局を設計した左立七次郎らとともに営繕局に勤務します。その後、白川宮(北白川宮能久親王?)の建築に従事し、四等技手に進みます。
18年12月工部省が廃止されると内務技師に補されましたが、間もなくこれを辞し、横浜の建築請負師清水満之助(後清水建設社長)とともに欧米諸国を勉強のため歴訪します。
鍋島直大の永田町鍋島邸が建築されることになると、これを請け負った現在の清水建設で、辰野金吾の勧めでその初代技術長になり、設計を行いました。しかし、明治21年5月30日、その竣工を見ることなく34の若さで病死します。鍋島邸西洋館は、その後、辰野金吾(一時、片山東熊)が計画監督となり、明治25年に落成しました。


2013年8月撮影

墓碑の裏面には復経の墓誌が刻まれています。
復経の妻栄子は、旧姓森永で、一男一女をもうけました。長男斗一は、復経が急死した時、まだ五歳でした。


2013年8月撮影

今泉家の墓地には、「今泉家之墓」のほかに、今泉勇慈、今泉宗一の角柱型墓碑と、今泉友一郎の板碑型墓碑がありました。
中央の今泉勇慈(1843-1882)は、佐賀藩士で、陸軍歩兵中尉だった人です。明治15年6月に40歳で病死します。この時歩兵第一聯隊第一大隊小隊長でした。明治13年頃従七位に叙されています。


2013年8月撮影

左側の今泉宗一(1879-1912)は、年齢から見て勇慈の子だと思われます。明治39年、東京帝国大学工科大学採鉱冶金科を卒業、鉱山監督署技師などに従事したようです。明治41年に仙台高等学校教授になり、明治43年から44年には大阪高等工業学校教授を務めました。45年7月17日に34歳で亡くなります。正七位に叙されました。妻は啓です。


2013年8月撮影
  


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