2015年12月24日

東京の中の佐賀「青山霊園30 牟田口元則・元学」

佐賀県士族牟田口元則とその子元学の墓が並ぶ牟田口家の墓を見つけました。それぞれ裏面には600字を超える墓誌が刻まれていました。

東京の中の佐賀「青山霊園30 牟田口元則・元学」
2013年4月撮影

牟田口元則(1812-1888)は、通称利左衛門といい、佐賀藩士納富利弼の三男です。同じく佐賀藩の牟田口元規に嗣子がいなかったため娘美尾を娶って養子となりました。23歳の時、鍋島家が海防のため長﨑の香焼島に兵士を配した時、その55人に選ばれました。その後直正の補外の扈従に選ばれ、川副代官、長﨑警備の軽卒隊長となり、佐賀藩が反射炉で大砲を鋳造した際にはその監督も務めました。その後有明海の干拓事業を進めました。戊辰戦争に際しては藩軍糧の監督のため大坂に出張しています。明治8年東京に移ります。
この墓誌は、これまでもたびたび登場いただいた西岡逾明によるものです。逾明は大審院判事等を務めた人ですが、詩書にもすぐれていました。実は元則は逾明の伯父に当たり、その縁でこの墓誌の撰書に当たったようです。

東京の中の佐賀「青山霊園30 牟田口元則・元学」

東京の中の佐賀「青山霊園30 牟田口元則・元学」
2013年4月撮影

牟田口元学(1843or44-1920)は、通称徳太郎、鷹村と号しました。元則の長子です。戊申戦争に際しては、監軍として奥羽の各地を転戦し功がありました。その後陸前伝令、権少外史などを務めましたが大隈重信の世話で明治4年工務省に出仕しました。その後文部農商務省を歴任、大書記官に任じられ、山林局長となりましたが、大隈が参議を辞め立憲改進党を立てると、元学も官を辞しこれに参加します。その後馬車鉄道会社を創設して社長となり、39年三電鉄合同には推されてその社長も務めました。42年これを辞めると、朝鮮瓦斯電気、小倉鉄道、朝鮮軽便鉄道の創設に尽力、この間、日清生命保険、富士身延鉄道、東洋精糖会社等の取締役も務め、大正5年正五位が授けられ貴族院議員となりました。(他の資料で補いました)
妻は(旧姓石井)啓子といいます。
この墓誌は久米邦武が撰し、武富誠が書しました。

東京の中の佐賀「青山霊園30 牟田口元則・元学」
2013年8月撮影




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Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 08:30 │東京の中の佐賀