2015年06月25日

東京の中の佐賀「谷中霊園4 大隈重信や佐賀関係の人びと」

前回、大隈重信の姉、相良妙子の墓を紹介しましたが、谷中霊園にはほかにも大隈重信に関係する人の墓がありました。
明治21年、第一次伊藤博文内閣の外務大臣に任じられた重信は、維新以来の懸案事項であった諸外国との不平等条約の改正に取り組みました。しかし、その内容に対する批判が各方面に起こります。
来島恒喜(1860 - 1889)は、福岡出身で、アジア主義を主張する政治結社玄洋社の社員でしたが、重信の条約改正案に反対し、大隈を暗殺するため、明治22年10月18日、重信が外務省からの帰路についた時、彼の乗る馬車に爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせました。来島は爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害をします。この事件によって大隈の条約改正交渉は中止され、大隈も辞表を提出します。

東京の中の佐賀「谷中霊園4 大隈重信や佐賀関係の人びと」
2013年4月撮影

恒喜の墓は、勝海舟によって谷中霊園に建てられました。この墓はその後、玄洋社の総帥頭山満によって建て替えられましたが、当初の墓石も傍に横たえられて残されています。
恒喜の墓は、博多崇福寺の玄洋社墓地にもあります。

東京の中の佐賀「谷中霊園4 大隈重信や佐賀関係の人びと」
2013年4月撮影

彫刻家朝倉文夫(1883-1964)は、早稲田大学の構内にある有名な大隈重信像を作りました。早稲田大学創設50周年と大隈重信没後10回忌を兼ねて作られたものです。

東京の中の佐賀「谷中霊園4 大隈重信や佐賀関係の人びと」
2013年4月撮影

文夫は、生涯3体の重信像を制作したそうですが、これは2体目の作です。

東京の中の佐賀「谷中霊園4 大隈重信や佐賀関係の人びと」
2013年1月撮影

同大学大隈庭園にある、重信の妻大隈綾子の銅像も、文夫の制作です。

東京の中の佐賀「谷中霊園4 大隈重信や佐賀関係の人びと」
2013年1月撮影

東京の中の佐賀「谷中霊園4 大隈重信や佐賀関係の人びと」

岩村通俊(1840-1915)は、明治6年7月に佐賀県権令に任命されました。難治県と言われていた佐賀県の中央集権化を目指して県庁改革などを進めましたが、反発も起こりました。その後任は弟の高俊(1845-1906)でしたが、この間の権令不在中に佐賀の征韓党は県庁を掌握し、高俊は熊本鎮台を率いて、着任、佐賀の乱(佐賀戦争)を鎮圧します。

東京の中の佐賀「谷中霊園4 大隈重信や佐賀関係の人びと」
2013年4月撮影

この墓は岩村通俊のものです。
通俊は、明治6年佐賀権令に任命されると、重信の元を訪れ、了解を得た上で赴任したそうです。

東京の中の佐賀「谷中霊園4 大隈重信や佐賀関係の人びと」
2013年4月撮影


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Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 08:30 │東京の中の佐賀