2015年05月28日

東京の中の佐賀「谷中霊園2 曾禰達蔵の墓」

前2回にわたり曾禰達蔵が設計に関わった建築物を見てきましたが、曾禰達蔵の墓は、前にも訪れた谷中霊園にあります。

東京の中の佐賀「谷中霊園2 曾禰達蔵の墓」
2013年4月撮影

東京の中の佐賀「谷中霊園2 曾禰達蔵の墓」
2013年4月撮影


「曾禰家之墓」と刻まれたこの石室状の墓は、周辺の墓に比べても異彩を放っています。この墓自体、多分、曾禰あるいは曾禰に関係する建築家によって設計されたものでしょう。

東京の中の佐賀「谷中霊園2 曾禰達蔵の墓」
2013年4月撮影

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曾禰達蔵(1856-1937)は、江戸城下丸ノ内の唐津藩邸に生まれました。当時の唐津藩主である小笠原長国は唐津にあり、江戸の藩邸にはその世子である長行がいて、達蔵をかわいがったそうです。
戊辰戦争が始まると、達蔵は地元唐津に戻ります。曾禰家の屋敷跡は、唐津市大名小路にありました。

東京の中の佐賀「谷中霊園2 曾禰達蔵の墓」
2013年10月撮影

唐津に戻った達蔵は、唐津藩が藩校として開設した英学寮耐恒寮に第一期生として入学します。この耐恒寮で教鞭を取ったのが、東京から招かれた高橋是清(1854-1936)でした。翌年、東京に帰る高橋は、達蔵の才能を惜しみ、達蔵を東京に同行し、達蔵に勉学を続けさせます。

東京の中の佐賀「谷中霊園2 曾禰達蔵の墓」
2013年10月撮影


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Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 08:30 │東京の中の佐賀