2014年11月13日
東京の中の佐賀「青松寺 江下武二の銅像」
青松寺は、港区の愛宕山の近くにある曹洞宗の寺院です。江戸時代には江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺の1つで、太田道灌が文明8(1476)年に創建しました。当初は現在の千代田区麹町付近にあったようですが、徳川家康による江戸城拡張に際して現在地に移転したそうです。長州藩や土佐藩、津和野藩などの江戸における菩提寺でした。


2009年9月撮影
青松寺の墓地は、本堂の裏山にあります。比較的最近区画整理をされているように見えました。この墓地の隅に、石碑や銅像が集められていました。
そのひとつに「肉弾三勇士三霊」と書かれた石塔があり、その左側に一人の兵士の銅像がありました。
「肉弾三勇士」とは、上海事件の時に、突撃路を開くために破壊筒を抱えて鉄条網に突っ込んだとされる3人の工兵を、当時陸軍大臣だった荒木貞夫が、愛国美談だとして、「爆弾三勇士」と呼んだところから生まれた言葉です。
その後の研究によると、この作戦は死ぬことを前提としたものではなかったようですが、三人の死は、軍の宣伝や当時のマスコミ等の影響もあり、世人の喝采をあびました。

2009年9月撮影
この三人の内の一人が、佐賀県出身の江下武二です。

Wikipediaには、青松寺に爆弾三勇士の銅像が建てられていた当時の写真が掲載されています。
三人の工兵が、長い破壊筒を抱えて突進している様子です。
江下のものだけが、青松寺に残っているのだそうです。

2009年9月撮影


2009年9月撮影
青松寺の墓地は、本堂の裏山にあります。比較的最近区画整理をされているように見えました。この墓地の隅に、石碑や銅像が集められていました。
そのひとつに「肉弾三勇士三霊」と書かれた石塔があり、その左側に一人の兵士の銅像がありました。
「肉弾三勇士」とは、上海事件の時に、突撃路を開くために破壊筒を抱えて鉄条網に突っ込んだとされる3人の工兵を、当時陸軍大臣だった荒木貞夫が、愛国美談だとして、「爆弾三勇士」と呼んだところから生まれた言葉です。
その後の研究によると、この作戦は死ぬことを前提としたものではなかったようですが、三人の死は、軍の宣伝や当時のマスコミ等の影響もあり、世人の喝采をあびました。

2009年9月撮影
この三人の内の一人が、佐賀県出身の江下武二です。

Wikipediaには、青松寺に爆弾三勇士の銅像が建てられていた当時の写真が掲載されています。
三人の工兵が、長い破壊筒を抱えて突進している様子です。
江下のものだけが、青松寺に残っているのだそうです。

2009年9月撮影
東京の中の佐賀「おわりに」
東京の中の佐賀「品川台場」【最終回】
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東京の中の佐賀「青山霊園33 江藤新平と交わった人たち」
東京の中の佐賀「青山霊園33 高木背水・江藤淳」
東京の中の佐賀「青山霊園32 鍋島藤蔭・幹」
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Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 08:30
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