2014年10月16日
東京の中の佐賀「賢崇寺17 二十二士之墓」
「二十二士之墓」は、昭和11年1月26日未明、祖国の将来を憂い、「昭和維新」を掲げて決起した陸軍・皇道派青年将校らの墓です。
賢崇寺の散歩の最後に、なぜここに「二十二士之墓」があるのか、見てみましょう。
二・二六事件に参加した青年将校に佐賀県関係者が含まれていることはよく知られています。
皇道派の影響を受けた一部青年将校らは、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現すると考え、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部、東京朝日新聞を占拠しました。
そして、軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えましたが、これを聞いた天皇は、彼らの行為を激しく非難、「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」とすさまじい言葉で意志を表明され、反乱軍はたちまち鎮圧され、一部は自決、事件の首謀者は銃殺刑に処されました。
首謀の青年将校らは反逆罪とされ、遺族も罪人の身内として非難され、憲兵隊、警察の監視下で遺体の引き取り、遺骨の埋葬すらできない状況だったそうです。

2011年10月撮影
そんな中、首謀者の一人栗原安秀中尉の父親である栗原勇大佐は、佐賀県出身であったことから、賢崇寺の29世住職藤田俊訓師に入門、得度して、遺骨の供養、遺族との連絡に奔走し、藤田師も遺骨埋葬合同慰霊祭の許可、墓碑の建立に尽力し、二十二士の合同慰霊祭が行われたそうです。
この「二十二士之墓」は、昭和27年7月12日の第十七回忌法要に合わせて建立されたものだそうです。

2010年2月撮影
碑の裏面には
「昭和十一年二月二十九日
野中四郎
昭和十一年三月六日
河野 壽
昭和十一年七月三日
相澤三郎
昭和十一年七月十二日
香田清貞
安藤輝三
竹島継夫
對馬勝雄
中橋基明
栗原安秀
丹生誠忠
(以下 下段)
坂井 直
田中 勝
中島莞爾
安田 優
高橋太郎
林 八郎
渋川善助
水上源一
昭和十二年八月十九日
村中孝次
磯部浅一
北輝次郎
西田 税
昭和二十七年七月十二日/ 仏心會建之 」
とあります。

2011年10月撮影
このうち、佐賀県出身・関係者には、香田清貞、中橋基明、栗原安秀、中島莞爾がいます。
香田清貞(1903-1936)は陸軍大尉で、昭和10年歩兵第一旅団副官となっていました。事件に当たっては、決行具体案の謀議に加わり当日は反乱軍主力部隊を率いて陸相官邸を占拠し、村中孝次らとともに陸軍上層部との交渉に当たりました。処刑時34歳です。
中橋基明(1907-1936)は東京生まれですが、本籍は佐賀県です。陸軍歩兵中尉、近衛歩兵第3連隊第7中隊。中島莞爾とともに高橋蔵相を襲撃しました。28歳。
栗原安秀(1908-1936)は、生まれは島根で、東京に在籍していましたが、彼の父親が佐賀県神埼郡出身の陸軍大佐栗原勇です。安秀は首謀者の一人で、首相官邸を襲撃、岡田総理なりすましていた総理の義弟・松尾伝蔵を誤認射殺しました。その後、朝日新聞社を襲撃、また各新聞社、通信社を廻って決起趣意書の掲載を要求しました。歩兵第1連隊附陸軍中尉、27歳。
中島莞爾(1912-1936)は、中橋基明とともに高橋蔵相を殺害後、朝日新聞社を襲撃します。鉄道第2連隊附陸軍少尉、陸軍砲兵学校在学中。25歳。
なお、二・二六事件の時は、歩兵第一聯隊長で、それ以前に皇道派を形成し、決起青年将校の思想的背景となったとされる真崎甚三郎も佐賀県出身です。事件後、関与を強く否定し、無罪となり、陸軍大将にまで上りました。終戦後、A級戦犯として逮捕命令が発令され、巣鴨プリズンに入所し取調にあいましたが、戦争犯罪はないとされ間もなく釈放されました。
真崎の墓は、この旅でも訪れたように、青山墓地にあります。

2011年10月撮影
賢崇寺の散歩の最後に、なぜここに「二十二士之墓」があるのか、見てみましょう。
二・二六事件に参加した青年将校に佐賀県関係者が含まれていることはよく知られています。
皇道派の影響を受けた一部青年将校らは、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現すると考え、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部、東京朝日新聞を占拠しました。
そして、軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えましたが、これを聞いた天皇は、彼らの行為を激しく非難、「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」とすさまじい言葉で意志を表明され、反乱軍はたちまち鎮圧され、一部は自決、事件の首謀者は銃殺刑に処されました。
首謀の青年将校らは反逆罪とされ、遺族も罪人の身内として非難され、憲兵隊、警察の監視下で遺体の引き取り、遺骨の埋葬すらできない状況だったそうです。

2011年10月撮影
そんな中、首謀者の一人栗原安秀中尉の父親である栗原勇大佐は、佐賀県出身であったことから、賢崇寺の29世住職藤田俊訓師に入門、得度して、遺骨の供養、遺族との連絡に奔走し、藤田師も遺骨埋葬合同慰霊祭の許可、墓碑の建立に尽力し、二十二士の合同慰霊祭が行われたそうです。
この「二十二士之墓」は、昭和27年7月12日の第十七回忌法要に合わせて建立されたものだそうです。

2010年2月撮影
碑の裏面には
「昭和十一年二月二十九日
野中四郎
昭和十一年三月六日
河野 壽
昭和十一年七月三日
相澤三郎
昭和十一年七月十二日
香田清貞
安藤輝三
竹島継夫
對馬勝雄
中橋基明
栗原安秀
丹生誠忠
(以下 下段)
坂井 直
田中 勝
中島莞爾
安田 優
高橋太郎
林 八郎
渋川善助
水上源一
昭和十二年八月十九日
村中孝次
磯部浅一
北輝次郎
西田 税
昭和二十七年七月十二日/ 仏心會建之 」
とあります。

2011年10月撮影
このうち、佐賀県出身・関係者には、香田清貞、中橋基明、栗原安秀、中島莞爾がいます。
香田清貞(1903-1936)は陸軍大尉で、昭和10年歩兵第一旅団副官となっていました。事件に当たっては、決行具体案の謀議に加わり当日は反乱軍主力部隊を率いて陸相官邸を占拠し、村中孝次らとともに陸軍上層部との交渉に当たりました。処刑時34歳です。
中橋基明(1907-1936)は東京生まれですが、本籍は佐賀県です。陸軍歩兵中尉、近衛歩兵第3連隊第7中隊。中島莞爾とともに高橋蔵相を襲撃しました。28歳。
栗原安秀(1908-1936)は、生まれは島根で、東京に在籍していましたが、彼の父親が佐賀県神埼郡出身の陸軍大佐栗原勇です。安秀は首謀者の一人で、首相官邸を襲撃、岡田総理なりすましていた総理の義弟・松尾伝蔵を誤認射殺しました。その後、朝日新聞社を襲撃、また各新聞社、通信社を廻って決起趣意書の掲載を要求しました。歩兵第1連隊附陸軍中尉、27歳。
中島莞爾(1912-1936)は、中橋基明とともに高橋蔵相を殺害後、朝日新聞社を襲撃します。鉄道第2連隊附陸軍少尉、陸軍砲兵学校在学中。25歳。
なお、二・二六事件の時は、歩兵第一聯隊長で、それ以前に皇道派を形成し、決起青年将校の思想的背景となったとされる真崎甚三郎も佐賀県出身です。事件後、関与を強く否定し、無罪となり、陸軍大将にまで上りました。終戦後、A級戦犯として逮捕命令が発令され、巣鴨プリズンに入所し取調にあいましたが、戦争犯罪はないとされ間もなく釈放されました。
真崎の墓は、この旅でも訪れたように、青山墓地にあります。

2011年10月撮影
東京の中の佐賀「おわりに」
東京の中の佐賀「品川台場」【最終回】
東京の中の佐賀「雑司ヶ谷 納富介次郎」
東京の中の佐賀「青山霊園33 江藤新平と交わった人たち」
東京の中の佐賀「青山霊園33 高木背水・江藤淳」
東京の中の佐賀「青山霊園32 鍋島藤蔭・幹」
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Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 08:30
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