2014年08月08日
東京の中の佐賀「賢崇寺12 西村貞陽」
賢崇寺の南を東西に走る墓道の北側に石灯籠が献灯された立派なお墓がありました。西村貞陽(1845?-1886)、室清子の墓です。
この人も歴史的にはあまり紹介されていない人なので、少し詳しく見てみましょう。

2012年2月撮影

2010年10月撮影
墓石裏面に貞陽の経歴が記されていました。他の資料も用いながら貞陽の経歴を追ってみます。
貞陽は父貞雄と母中島氏の娘(松子)の間に生まれました。西村家は代々佐賀鍋島家に仕えましたが、明治になって小監察として江戸藩邸にいる時、直正が開拓長官に任じられ、貞陽も少主典として函館に赴くことになりました。この時、明治新政府によって開拓使が置かれ、函館府が廃止になります(明治2年7月)。貞陽は開拓吏員となって事務に奔走します。貞陽は島義勇のもとで、開拓使の受け入れに奔走しましたが、直正に替わって長官となった東久世通禧と島は折り合いが悪く、島が東京に戻された後も北海道に残り、島に替わって函館判官となった岩村通俊により打ち切りになりかけた函館本府の建設事業の復活や札幌の街割りなどの実務の指揮をとったようです。3年閏10月、札幌市詰、5年9月東京詰となり、5年4月正六位叙任、6年1月五等出仕に任じられます。明治7年佐賀の乱が起こると、貞陽は大久保内務卿に従い、碑文によると「有功賜金若干」と書かれています。佐賀の乱に当たって、鎮圧に功があり報奨金が出されたということでしょう。
山村竜也『新選組証言録: 『史談会速記録』が語る真実』(PHP新書)という本を見ると、旧新撰組隊士阿部隆明の証言として、彼は明治7年北海道開拓使に在籍していましたが、2月12日、黒田開拓長官から長崎に出張するよう命じられました。実は役所の方には北海道へ出張すると言って、家族にも知らせず、佐賀県に探索に行ったということです。福岡まで大久保卿に従い、ここで大久保と別れた阿部は、同じく開拓使出仕だった西村貞陽とともに長崎へ行きます。そこで江藤新平が長崎県庁を襲うつもりだという報知があり、また江藤が長崎の佐賀屋敷に潜伏しているという情報を聞きつけて、貞陽は長崎の巡邏兵とともに捕縛に向い、潜伏していた者たちを捕縛することができたといいます。これが貞陽の「功績」であったのでしょうか。彼はいつ、かつての上司であった島義勇がこの乱の首謀者として参加していることを知ったのでしょうか。
明治8年貞陽は清国に派遣されます。これは海外市場の販路拡大を目的とした調査であり、貞陽のこの調査は上海での国産売捌所設置というような政策に反映されましたし、北海道においても産物の国外販売を目的とした半官半民の商事会社『広業商会』の設立の斡旋も行っています。11年三等出仕に任じられ、正五位に叙されます。14年職を辞し、勲四等に叙されました。16年元老院議官任じられ、従四位勲三等に叙せられます。19年正四位に叙されましたが、この日帰らぬ人となりました。妻は中山氏です。

2011年10月撮影
2基の石灯籠には「故元老院議官正四位勲二等西村貞陽霊前」と刻まれ、その台石にはそうそうたる献納者の名前が刻まれています。
右の石灯籠に刻まれた奉納者の中には大木喬任、東久世通禧、山口尚芳、津田出、黒田清綱、大給恒、大久保一翁、神田孝平、箕作麟祥、西周、鶴田皓らの名前が、左の石灯籠には、伊集院兼寛、大鳥圭介、加藤弘之、鍋島直彬、中村正直、石井忠亮らの名前がありました。

2012年2月撮影
この人も歴史的にはあまり紹介されていない人なので、少し詳しく見てみましょう。

2012年2月撮影

2010年10月撮影
墓石裏面に貞陽の経歴が記されていました。他の資料も用いながら貞陽の経歴を追ってみます。
貞陽は父貞雄と母中島氏の娘(松子)の間に生まれました。西村家は代々佐賀鍋島家に仕えましたが、明治になって小監察として江戸藩邸にいる時、直正が開拓長官に任じられ、貞陽も少主典として函館に赴くことになりました。この時、明治新政府によって開拓使が置かれ、函館府が廃止になります(明治2年7月)。貞陽は開拓吏員となって事務に奔走します。貞陽は島義勇のもとで、開拓使の受け入れに奔走しましたが、直正に替わって長官となった東久世通禧と島は折り合いが悪く、島が東京に戻された後も北海道に残り、島に替わって函館判官となった岩村通俊により打ち切りになりかけた函館本府の建設事業の復活や札幌の街割りなどの実務の指揮をとったようです。3年閏10月、札幌市詰、5年9月東京詰となり、5年4月正六位叙任、6年1月五等出仕に任じられます。明治7年佐賀の乱が起こると、貞陽は大久保内務卿に従い、碑文によると「有功賜金若干」と書かれています。佐賀の乱に当たって、鎮圧に功があり報奨金が出されたということでしょう。
山村竜也『新選組証言録: 『史談会速記録』が語る真実』(PHP新書)という本を見ると、旧新撰組隊士阿部隆明の証言として、彼は明治7年北海道開拓使に在籍していましたが、2月12日、黒田開拓長官から長崎に出張するよう命じられました。実は役所の方には北海道へ出張すると言って、家族にも知らせず、佐賀県に探索に行ったということです。福岡まで大久保卿に従い、ここで大久保と別れた阿部は、同じく開拓使出仕だった西村貞陽とともに長崎へ行きます。そこで江藤新平が長崎県庁を襲うつもりだという報知があり、また江藤が長崎の佐賀屋敷に潜伏しているという情報を聞きつけて、貞陽は長崎の巡邏兵とともに捕縛に向い、潜伏していた者たちを捕縛することができたといいます。これが貞陽の「功績」であったのでしょうか。彼はいつ、かつての上司であった島義勇がこの乱の首謀者として参加していることを知ったのでしょうか。
明治8年貞陽は清国に派遣されます。これは海外市場の販路拡大を目的とした調査であり、貞陽のこの調査は上海での国産売捌所設置というような政策に反映されましたし、北海道においても産物の国外販売を目的とした半官半民の商事会社『広業商会』の設立の斡旋も行っています。11年三等出仕に任じられ、正五位に叙されます。14年職を辞し、勲四等に叙されました。16年元老院議官任じられ、従四位勲三等に叙せられます。19年正四位に叙されましたが、この日帰らぬ人となりました。妻は中山氏です。

2011年10月撮影
2基の石灯籠には「故元老院議官正四位勲二等西村貞陽霊前」と刻まれ、その台石にはそうそうたる献納者の名前が刻まれています。
右の石灯籠に刻まれた奉納者の中には大木喬任、東久世通禧、山口尚芳、津田出、黒田清綱、大給恒、大久保一翁、神田孝平、箕作麟祥、西周、鶴田皓らの名前が、左の石灯籠には、伊集院兼寛、大鳥圭介、加藤弘之、鍋島直彬、中村正直、石井忠亮らの名前がありました。

2012年2月撮影
東京の中の佐賀「おわりに」
東京の中の佐賀「品川台場」【最終回】
東京の中の佐賀「雑司ヶ谷 納富介次郎」
東京の中の佐賀「青山霊園33 江藤新平と交わった人たち」
東京の中の佐賀「青山霊園33 高木背水・江藤淳」
東京の中の佐賀「青山霊園32 鍋島藤蔭・幹」
東京の中の佐賀「品川台場」【最終回】
東京の中の佐賀「雑司ヶ谷 納富介次郎」
東京の中の佐賀「青山霊園33 江藤新平と交わった人たち」
東京の中の佐賀「青山霊園33 高木背水・江藤淳」
東京の中の佐賀「青山霊園32 鍋島藤蔭・幹」
Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 10:47
│東京の中の佐賀