2013年11月28日
東京の中の佐賀「青山霊園15 武富邦鼎・堤董真ほか」
前回、佐賀藩の海軍関係者が日本海軍の創始に大きな役割を果たしたことを述べ、その代表的な人物の墓として中牟田倉之助と真木長義のものを紹介しました。
ほかにも、さまざまな形で草創期日本海軍を支えた佐賀藩関係者がいます。
武富邦鼎(1852-1917)は、佐賀藩士で、海軍関係の職務を歴任し、「赤城」「磐手」艦長や、第4艦隊司令官、第3艦隊司令官(第6戦隊)、南清艦隊司令官、海軍省軍務局長兼将官会議議員、大湊要港部司令官などを歴任しています。
日清戦争、日露戦争にも参加、日本海海戦にも第3艦隊司令官(第5戦隊)として参戦しています。

2009年9月撮影
武富家の墓は1種ロ12号14側にありました。

2009年9月撮影
増田明道(1836-1881)も、戊辰戦争の末期の箱館戦争に官軍海軍の参謀として参加しており、それ以前に長崎海軍伝習所等で学んだ可能性があります。
明治政府では海軍に出仕しています。

2013年4月撮影
堤董真(1835-1887)は、兵学・海軍教育におけるさまざまなテキストの訳者・校閲者として知られています。佐賀藩時代、蘭学寮で学び指南役も務め、その後幕府の長崎英学伝習所でアメリカ人教師に英語を学び、ここでも指南役まで務めています。
現在の東京大学につながる旧昌平坂学問所の後身「大学校」では教諭等を務め、ここで使われた英米のテキストの翻訳などを行っています。その後兵部省、海軍に出仕、英語力を生かした業務を行い、海軍秘書官なども務めていたようです。
墓石には、室要子(1843?-1932)の名前もありました。

2013年4月撮影
堤家の墓域には、堤家に縁のある人々の墓も設けられていました。
その一つ「陸軍歩兵大尉宇都宮太郎室堤氏之墓」は、佐賀県出身の陸軍大将であった宇都宮太郎に嫁いだ董真の娘寿満子の墓です。

2013年4月撮影
ぷらす
後に改めて訪問しますが、江戸時代、佐賀藩の江戸における菩提寺賢宗寺に、宇都宮太郎の墓があります。
その横に並んでいる墓は、先妻であった寿満子の墓です。

2011年4月撮影
董真の母由井女の墓も賢宗寺にありました。明治6年71才で亡くなったようです。

2011年4月撮影
ほかにも、さまざまな形で草創期日本海軍を支えた佐賀藩関係者がいます。
武富邦鼎(1852-1917)は、佐賀藩士で、海軍関係の職務を歴任し、「赤城」「磐手」艦長や、第4艦隊司令官、第3艦隊司令官(第6戦隊)、南清艦隊司令官、海軍省軍務局長兼将官会議議員、大湊要港部司令官などを歴任しています。
日清戦争、日露戦争にも参加、日本海海戦にも第3艦隊司令官(第5戦隊)として参戦しています。

2009年9月撮影
武富家の墓は1種ロ12号14側にありました。

2009年9月撮影
増田明道(1836-1881)も、戊辰戦争の末期の箱館戦争に官軍海軍の参謀として参加しており、それ以前に長崎海軍伝習所等で学んだ可能性があります。
明治政府では海軍に出仕しています。

2013年4月撮影
堤董真(1835-1887)は、兵学・海軍教育におけるさまざまなテキストの訳者・校閲者として知られています。佐賀藩時代、蘭学寮で学び指南役も務め、その後幕府の長崎英学伝習所でアメリカ人教師に英語を学び、ここでも指南役まで務めています。
現在の東京大学につながる旧昌平坂学問所の後身「大学校」では教諭等を務め、ここで使われた英米のテキストの翻訳などを行っています。その後兵部省、海軍に出仕、英語力を生かした業務を行い、海軍秘書官なども務めていたようです。
墓石には、室要子(1843?-1932)の名前もありました。

2013年4月撮影
堤家の墓域には、堤家に縁のある人々の墓も設けられていました。
その一つ「陸軍歩兵大尉宇都宮太郎室堤氏之墓」は、佐賀県出身の陸軍大将であった宇都宮太郎に嫁いだ董真の娘寿満子の墓です。

2013年4月撮影


後に改めて訪問しますが、江戸時代、佐賀藩の江戸における菩提寺賢宗寺に、宇都宮太郎の墓があります。
その横に並んでいる墓は、先妻であった寿満子の墓です。

2011年4月撮影
董真の母由井女の墓も賢宗寺にありました。明治6年71才で亡くなったようです。

2011年4月撮影
東京の中の佐賀「おわりに」
東京の中の佐賀「品川台場」【最終回】
東京の中の佐賀「雑司ヶ谷 納富介次郎」
東京の中の佐賀「青山霊園33 江藤新平と交わった人たち」
東京の中の佐賀「青山霊園33 高木背水・江藤淳」
東京の中の佐賀「青山霊園32 鍋島藤蔭・幹」
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Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 11:32
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