2013年07月11日
東京の中の佐賀「青山霊園5」
志田林三郎(1855―1892)は多久市(当時佐賀藩)生まれの物理学者・電気工学者です。
工部省工学寮(現在の東京大学工学部)に入学し、電信科を首席で卒業、日本初の工学士となりました(同期に辰野金吾がいます)。翌年グラスゴー大学に留学し、物理学、数学などを学びました。
早くから、電気利用技術の将来性について注目し、電気工学の普及・発展を進めるため電気学会を設立、工部大学で電気工学等での専門教育、逓信省の設置提案などを行いました。

2005年2月撮影
志田家の墓は、1種-イ 10号11側にあります。

2013年1月撮影
右が、志田林三郎と富子夫人の墓です。
林三郎は36歳の若さで亡くなってしまいました。

2009年9月撮影
富子夫人(1866-1901)は、愛媛県の安満信愛の娘です。
林三郎が亡くなった時、長女タカが数え8歳、長男文雄が6歳、次女スミ、三女ヒデ、お腹には4女ハルがいました。
辰野金吾ら友人有志により遺族扶助委員会ができ、広く教育資金募集が行われたそうです。

2013年1月撮影
林三郎の墓の右には長男志田文雄(1886?-1938)、初音夫妻の墓がありました。
文雄は、逓信省に入省後、父林三郎も創業に関係した日本電気の社長などを務めています。

2013年1月撮影
ぷらす
林三郎のふるさと、多久市の宝蔵寺にも、林三郎の墓があります。ここには林三郎の遺髪が納められています。
その右側の墓は林三郎の両親重蔵、フミ(婦美)の墓です。重蔵は林三郎が生まれた翌年に亡くなりました。

2013年5月撮影
工部省工学寮(現在の東京大学工学部)に入学し、電信科を首席で卒業、日本初の工学士となりました(同期に辰野金吾がいます)。翌年グラスゴー大学に留学し、物理学、数学などを学びました。
早くから、電気利用技術の将来性について注目し、電気工学の普及・発展を進めるため電気学会を設立、工部大学で電気工学等での専門教育、逓信省の設置提案などを行いました。

2005年2月撮影
志田家の墓は、1種-イ 10号11側にあります。

2013年1月撮影
右が、志田林三郎と富子夫人の墓です。
林三郎は36歳の若さで亡くなってしまいました。

2009年9月撮影
富子夫人(1866-1901)は、愛媛県の安満信愛の娘です。
林三郎が亡くなった時、長女タカが数え8歳、長男文雄が6歳、次女スミ、三女ヒデ、お腹には4女ハルがいました。
辰野金吾ら友人有志により遺族扶助委員会ができ、広く教育資金募集が行われたそうです。

2013年1月撮影
林三郎の墓の右には長男志田文雄(1886?-1938)、初音夫妻の墓がありました。
文雄は、逓信省に入省後、父林三郎も創業に関係した日本電気の社長などを務めています。

2013年1月撮影


林三郎のふるさと、多久市の宝蔵寺にも、林三郎の墓があります。ここには林三郎の遺髪が納められています。
その右側の墓は林三郎の両親重蔵、フミ(婦美)の墓です。重蔵は林三郎が生まれた翌年に亡くなりました。

2013年5月撮影
東京の中の佐賀「おわりに」
東京の中の佐賀「品川台場」【最終回】
東京の中の佐賀「雑司ヶ谷 納富介次郎」
東京の中の佐賀「青山霊園33 江藤新平と交わった人たち」
東京の中の佐賀「青山霊園33 高木背水・江藤淳」
東京の中の佐賀「青山霊園32 鍋島藤蔭・幹」
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Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 08:30
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