2012年09月27日
東京の中の佐賀「国会議事堂」
国会議事堂
まずは日本の中心国会議事堂に行ってみましょう。
御存じ国会議事堂です。桜田門の方からみた、国会正面の姿です。
左が衆議院、右が参議院です。
国会議事堂は 1936年(昭和11年)に帝国議会議事堂として建設されました。
この建物の建設自体は、設計コンペで行われ、その審査員には唐津出身の辰野金吾がかかわったのですが、ここで紹介したいのはその点ではありません。
議事堂の衆議院と参議院の間の中央広間 中央玄関を入った先、中央塔の真下にある広間の中を見たいと思います。
我々庶民は正門から入ることはできませんので、裏の方にまわって、見学の手続きをします。

国会議事堂見学ツアーの受付は、衆議院と参議院、それぞれ受付の仕方が違うようです。私は参議院見学に参加しました。(写真は衆議院の通用門です。)

このツアーに参加すると、議会の中を一通り案内してくれますが、許可されたところ以外は写真撮影ができません。
私が見たいのは中央広間なのですが、ここは撮影エヌジーです。
それで、大広間を詳しく見たい人のために、遠隔操作によるビデオカメラの映像を見るためのモニターが置いてありました。その画像を撮影しました。
大広間は、2階から6階まで吹き抜け 天井は32.62m。
天井はステンドグラス、四方の壁面には日本の春夏秋冬を描いた4枚の油絵の絵画がかけてあります。
広間の四隅には、日本の憲政に貢献した板垣退助、大隈重信、伊藤博文の銅像と、像の立っていない空の台座が置かれています。
右が佐賀県出身の大隈重信、左は伊藤博文、手前見えない部分に板垣退助がいます。
空の台座が存在する理由については諸説あり、誰の銅像を置くか話がまとまらなかったという説、政治は常に未完であることを象徴しているという説、もっと偉大な政治家になれという戒めの意味で空けてあるという説、皇居にお尻を向けるので避けているという説などがあるそうです。

大隈重信像をズームアップしてみました。作者は朝倉文夫だそうです。

一通り参議院の中を見学して、帰りは、正門の方から退場します。
一般の客は、ここで議事堂をバックに記念撮影をします。
私は、議事堂前参議院側にある林に注目しました。

ここには 1970年に議会開設80周年を記念して、各都道府県から贈られた木が植えられています。
その中には佐賀県のクスノキも見つけることができました。
でも、いずれかなり大きくなるはずで、その時はどうするんだろうと、人ごとながら心配しています。

まずは日本の中心国会議事堂に行ってみましょう。
御存じ国会議事堂です。桜田門の方からみた、国会正面の姿です。
左が衆議院、右が参議院です。
国会議事堂は 1936年(昭和11年)に帝国議会議事堂として建設されました。
この建物の建設自体は、設計コンペで行われ、その審査員には唐津出身の辰野金吾がかかわったのですが、ここで紹介したいのはその点ではありません。
議事堂の衆議院と参議院の間の中央広間 中央玄関を入った先、中央塔の真下にある広間の中を見たいと思います。
我々庶民は正門から入ることはできませんので、裏の方にまわって、見学の手続きをします。

国会議事堂見学ツアーの受付は、衆議院と参議院、それぞれ受付の仕方が違うようです。私は参議院見学に参加しました。(写真は衆議院の通用門です。)

このツアーに参加すると、議会の中を一通り案内してくれますが、許可されたところ以外は写真撮影ができません。
私が見たいのは中央広間なのですが、ここは撮影エヌジーです。
それで、大広間を詳しく見たい人のために、遠隔操作によるビデオカメラの映像を見るためのモニターが置いてありました。その画像を撮影しました。
大広間は、2階から6階まで吹き抜け 天井は32.62m。
天井はステンドグラス、四方の壁面には日本の春夏秋冬を描いた4枚の油絵の絵画がかけてあります。
広間の四隅には、日本の憲政に貢献した板垣退助、大隈重信、伊藤博文の銅像と、像の立っていない空の台座が置かれています。
右が佐賀県出身の大隈重信、左は伊藤博文、手前見えない部分に板垣退助がいます。
空の台座が存在する理由については諸説あり、誰の銅像を置くか話がまとまらなかったという説、政治は常に未完であることを象徴しているという説、もっと偉大な政治家になれという戒めの意味で空けてあるという説、皇居にお尻を向けるので避けているという説などがあるそうです。

大隈重信像をズームアップしてみました。作者は朝倉文夫だそうです。

一通り参議院の中を見学して、帰りは、正門の方から退場します。
一般の客は、ここで議事堂をバックに記念撮影をします。
私は、議事堂前参議院側にある林に注目しました。

ここには 1970年に議会開設80周年を記念して、各都道府県から贈られた木が植えられています。
その中には佐賀県のクスノキも見つけることができました。
でも、いずれかなり大きくなるはずで、その時はどうするんだろうと、人ごとながら心配しています。

東京の中の佐賀「おわりに」
東京の中の佐賀「品川台場」【最終回】
東京の中の佐賀「雑司ヶ谷 納富介次郎」
東京の中の佐賀「青山霊園33 江藤新平と交わった人たち」
東京の中の佐賀「青山霊園33 高木背水・江藤淳」
東京の中の佐賀「青山霊園32 鍋島藤蔭・幹」
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Posted by 佐賀城本丸歴史館 at 17:03
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