2024年03月29日
佐賀県人名辞典の更新版(vol.9)を公開しました。
佐賀県人名辞典の更新版(vol.9)を公開しました。
佐賀県人名辞典は、原始古代から近代までの佐賀県に関わる人物の基礎情報を紹介しています。
収録対象の下限は、明治期生まれの人物としました。
また、肥前佐賀地域に与えた影響が大きいと見なされる人物については、佐賀県出身者以外でも選抜して掲載しています。
現在、966人の人名の項目及び約4,900人分の人名リストを公開しています。
今後、補充、更新を行うこととしています。
閲覧は無料ですので、皆さんぜひご覧ください。
【佐賀県人名辞典URL】
https://www.saga-ebooks.jp/jinmei/
佐賀県人名辞典は、原始古代から近代までの佐賀県に関わる人物の基礎情報を紹介しています。
収録対象の下限は、明治期生まれの人物としました。
また、肥前佐賀地域に与えた影響が大きいと見なされる人物については、佐賀県出身者以外でも選抜して掲載しています。
現在、966人の人名の項目及び約4,900人分の人名リストを公開しています。
今後、補充、更新を行うこととしています。
閲覧は無料ですので、皆さんぜひご覧ください。
【佐賀県人名辞典URL】
https://www.saga-ebooks.jp/jinmei/
2019年01月10日
佐賀偉人伝特別講演会を開催【終了しました】
佐賀偉人伝特別講演会を開催します。
詳しくは、下記チラシをご覧ください。
日時:2019 年3月10日[日]13:30~16:30
場所:佐賀県立佐賀城本丸歴史館 外御書院
◇事前申込不要 先着200名
◇聴講無料
佐賀藩近代化のグランドデザイン『学政管見』を読む
【講演】13:30 ~14:45
学政管見にみる未来を見とおす教育政策づくり
橋本昭彦(国立教育政策研究所教育政策・評価研究部総括研究官)
【鼎談】15:00 ~16:30
『学政管見』を読む 私が着目する学政管見ベスト10
伊香賀 隆(佐賀大学特命研究員、佐賀県立図書館近世資料編さん室)
大園隆二郎(佐賀偉人伝、佐賀県人名辞典編集委員)
橋本昭彦
皆さまのお越しをお待ちしています。
詳しくは、下記チラシをご覧ください。
日時:2019 年3月10日[日]13:30~16:30
場所:佐賀県立佐賀城本丸歴史館 外御書院
◇事前申込不要 先着200名
◇聴講無料
佐賀藩近代化のグランドデザイン『学政管見』を読む
【講演】13:30 ~14:45
学政管見にみる未来を見とおす教育政策づくり
橋本昭彦(国立教育政策研究所教育政策・評価研究部総括研究官)
【鼎談】15:00 ~16:30
『学政管見』を読む 私が着目する学政管見ベスト10
伊香賀 隆(佐賀大学特命研究員、佐賀県立図書館近世資料編さん室)
大園隆二郎(佐賀偉人伝、佐賀県人名辞典編集委員)
橋本昭彦
皆さまのお越しをお待ちしています。
2018年02月02日
佐賀偉人伝特別講演会を開催【終了しました】
佐賀偉人伝特別記念講演会を開催します。
詳しくは、下記チラシをご覧ください。
講師:志邨匠子(秋田公立美術大学教授)
日時:平成30年3月11日(日) 13時30分~15時
場所:佐賀城本丸歴史館 外御書院
◇事前申込不要
◇聴講無料
皆さまのお越しをお待ちしています。
詳しくは、下記チラシをご覧ください。
講師:志邨匠子(秋田公立美術大学教授)
日時:平成30年3月11日(日) 13時30分~15時
場所:佐賀城本丸歴史館 外御書院
◇事前申込不要
◇聴講無料
皆さまのお越しをお待ちしています。
2017年02月07日
佐賀偉人伝特別記念講演会【終了しました】
佐賀偉人伝特別記念講演会を開催します。
詳しくは、下記チラシをご覧ください。
講師:森田朋子(中部大学教授・明治維新史学会理事)
日時:平成29年3月20日(月・祝) 13時30分~15時
場所:佐賀城本丸歴史館 外御書院
◇事前申込不要
◇聴講無料
詳しくは、下記チラシをご覧ください。
講師:森田朋子(中部大学教授・明治維新史学会理事)
日時:平成29年3月20日(月・祝) 13時30分~15時
場所:佐賀城本丸歴史館 外御書院
◇事前申込不要
◇聴講無料
タグ :佐賀偉人伝
2017年02月07日
佐賀偉人伝パネル展【終了しました】
今年度の佐賀偉人伝パネル展示は、外交あるいは日本人の海外との接触に関わる挿図を「佐賀偉人伝」からセレクトしました。
みなさま是非お越しください。
期間:平成29年3月5日(日)まで
時間:9時30分~18時
会場:佐賀城本丸歴史館 情報コーナー
◇朝鮮通信使の接遇
◇幕末の日本人に影響を与えた海防書
◇万延元年遣米使節
◇佐賀藩のパリ万博派遣団
◇岩倉使節団
◇ウィーン万博渡航団
◇ウィーン万博
◇副島種臣外務卿
◇マリア・ルス号事件
◇大隈外相被爆
みなさま是非お越しください。
期間:平成29年3月5日(日)まで
時間:9時30分~18時
会場:佐賀城本丸歴史館 情報コーナー
◇朝鮮通信使の接遇
◇幕末の日本人に影響を与えた海防書
◇万延元年遣米使節
◇佐賀藩のパリ万博派遣団
◇岩倉使節団
◇ウィーン万博渡航団
◇ウィーン万博
◇副島種臣外務卿
◇マリア・ルス号事件
◇大隈外相被爆
タグ :佐賀偉人伝
2016年03月28日
蕃学稽古所の人物について
2015年9月15日の記事でお知らせしました蕃学稽古所の人物について、従来これらの人名は雑誌『実業之日本』の「大隈侯追悼号」(大正11年)の記述を踏襲してきました。佐賀偉人伝『大隈重信』『副島種臣』『枝吉神陽』についても、「堤董信」と表記しています。
しかしその後の調査で、同一人物と思われる人物の墓石や公文書などの表記から、「堤董真」とするのが適切と判断しました。この場をかりてお詫びして訂正いたします。
しかしその後の調査で、同一人物と思われる人物の墓石や公文書などの表記から、「堤董真」とするのが適切と判断しました。この場をかりてお詫びして訂正いたします。
2016年03月17日
東京の中の佐賀「おわりに」
最初から考えていたわけではないのですが、今回で99回目の紹介ができました。
まだまだ紹介したい場所のリストが残っているのですが、今日までに取材ができませんでした。
古今、「百物語」は99話で終わるのが吉なんだそうです。ということで、今回で一つの区切りとしたいと思います。
おつきあいいただいた方には、本当に感謝申し上げます。
ありがとうございました。(T)
まだまだ紹介したい場所のリストが残っているのですが、今日までに取材ができませんでした。
古今、「百物語」は99話で終わるのが吉なんだそうです。ということで、今回で一つの区切りとしたいと思います。
おつきあいいただいた方には、本当に感謝申し上げます。
ありがとうございました。(T)
2016年03月17日
東京の中の佐賀「品川台場」【最終回】
佐賀藩がわが国初めての鉄製大砲の鋳造に成功、実用化のメドが立って間もなくの嘉永6年(1853)6月、ペリー艦隊が浦賀に来航します。江戸湾防備強化の必要性に迫られた幕府は、佐賀藩に対して鉄製大砲200門の製造を打診し、佐賀藩は、50門の製造を受注しました。
佐賀藩は、この注文に応えるため、それまで大砲を鋳造していた築地の反射炉とは別に、新たに反射炉を設置することを決め、城下町多布施に、その名も「公儀石火矢鋳立所」を設置し、大砲鋳造を行いました。
幕府ではこれと並行して、品川洲崎沖から深川洲崎沖に11ヵ所の海中台場を築く計画が立てられました。
2005年3月撮影
嘉永7年12月、最終的に6基の台場が竣工しました。この間、台場建設の最大の目的であったペリーの2度目の来航を嘉永7年1月に迎え、計画は大幅に縮小されたようですが、佐賀藩は安政2年(1855)までに26門(うち8門は運送中に沈没)、安政6年(1859)までに32門が船で江戸に送られ、結果的に受注された50門すべてが幕府に納品されています。
このうち42門が品川台場に配備されました。
2009年9月撮影
2009年9月撮影
2009年9月撮影
佐賀藩は、この注文に応えるため、それまで大砲を鋳造していた築地の反射炉とは別に、新たに反射炉を設置することを決め、城下町多布施に、その名も「公儀石火矢鋳立所」を設置し、大砲鋳造を行いました。
幕府ではこれと並行して、品川洲崎沖から深川洲崎沖に11ヵ所の海中台場を築く計画が立てられました。
2005年3月撮影
嘉永7年12月、最終的に6基の台場が竣工しました。この間、台場建設の最大の目的であったペリーの2度目の来航を嘉永7年1月に迎え、計画は大幅に縮小されたようですが、佐賀藩は安政2年(1855)までに26門(うち8門は運送中に沈没)、安政6年(1859)までに32門が船で江戸に送られ、結果的に受注された50門すべてが幕府に納品されています。
このうち42門が品川台場に配備されました。
2009年9月撮影
2009年9月撮影
2009年9月撮影
2016年03月14日
佐賀偉人伝出版パネル展示開催のご案内【終了しました】
平成22年度完結した「佐賀偉人伝」の挿図からワイド判で見たい図版を1冊1点セレクトしてパネル展示を行います。
みなさまのお越しをお待ちしています。
平成28年3月8日(火)~ 3月30日(水)
【開催時間】9:30~18:00
【会場】佐賀県立佐賀城本丸歴史館 情報コーナー
◇鍋島直正
佐賀藩が警備にあたっていた1864年頃の長崎の様子。
◇大隈重信
かつて政敵であった伊藤博文との交友は生涯つづいた。
◇岡田三郎助
岡田三郎助は、曾山幸彦が開いた画塾(曾山塾)に通い本格的に洋画を学び始めた。
◇平山醇左衛門
正保4年(1647)にポルトガル船が入稿した際の長崎警備の様子。
◇島義勇
開拓のため赴任した石狩の風景。右から2つ目の建物が島判官の官宅と推定される。
◇大木喬任
思慮詳密、従容沈着といわれた大木喬任。
◇江藤新平
江藤新平は、初代司法卿に就任し、司法改革を行った。
◇辰野金吾
1914年竣工時の東京駅。
◇佐野常民
佐野常民は、ウィーンの新聞の一面で「これから日本帝国の行く末に大きく影響を与えていく人物」と評された。
◇納富介次郎
納富介次郎は、石川県から美術工芸改良巡回教師を2回にわたり委嘱された。また金沢工業高校の創設に寄与し、工芸教育に力を注いだ。
◇草場佩川
草場佩川は江戸街から出島のオランダ商館を望み、詩を詠んだ。
◇副島種臣
副島種臣が明治37年9月9日、喜寿の祝いに応えて揮毫した書。
◇伊東玄朴
若き鍋島直大
◇枝吉神陽
枝吉神陽が学んだ昌平黌の絵(湯島聖堂)
◇古賀穀堂
古賀穀堂の父・精里と弟・侗庵が幕府御儒者として教鞭を執った。
みなさまのお越しをお待ちしています。
平成28年3月8日(火)~ 3月30日(水)
【開催時間】9:30~18:00
【会場】佐賀県立佐賀城本丸歴史館 情報コーナー
◇鍋島直正
佐賀藩が警備にあたっていた1864年頃の長崎の様子。
◇大隈重信
かつて政敵であった伊藤博文との交友は生涯つづいた。
◇岡田三郎助
岡田三郎助は、曾山幸彦が開いた画塾(曾山塾)に通い本格的に洋画を学び始めた。
◇平山醇左衛門
正保4年(1647)にポルトガル船が入稿した際の長崎警備の様子。
◇島義勇
開拓のため赴任した石狩の風景。右から2つ目の建物が島判官の官宅と推定される。
◇大木喬任
思慮詳密、従容沈着といわれた大木喬任。
◇江藤新平
江藤新平は、初代司法卿に就任し、司法改革を行った。
◇辰野金吾
1914年竣工時の東京駅。
◇佐野常民
佐野常民は、ウィーンの新聞の一面で「これから日本帝国の行く末に大きく影響を与えていく人物」と評された。
◇納富介次郎
納富介次郎は、石川県から美術工芸改良巡回教師を2回にわたり委嘱された。また金沢工業高校の創設に寄与し、工芸教育に力を注いだ。
◇草場佩川
草場佩川は江戸街から出島のオランダ商館を望み、詩を詠んだ。
◇副島種臣
副島種臣が明治37年9月9日、喜寿の祝いに応えて揮毫した書。
◇伊東玄朴
若き鍋島直大
◇枝吉神陽
枝吉神陽が学んだ昌平黌の絵(湯島聖堂)
◇古賀穀堂
古賀穀堂の父・精里と弟・侗庵が幕府御儒者として教鞭を執った。
2016年03月03日
東京の中の佐賀「雑司ヶ谷 納富介次郎」
豊島区は、かつてどこか暗い雰囲気がありましたが、平成以後は、明るい町に変貌したように感じます。いわゆる池袋ルネサンス、文化による街づくりの成果でしょうか。
雑司ヶ谷霊園は、豊島区の南部にあります。東側の音羽池袋線を挟んで向かい側には大隈重信の墓があった文京区の護国寺があります。
この雑司ヶ谷霊園もかつては塀に囲まれた墓地だったらしいのですが、今は明るい雰囲気の霊園になっていました。
ここには、竹下夢二や小泉八雲、ジョン万次郎、泉鏡花、大川橋三という人たちが眠っていますが、佐賀県関係では納富介次郎の墓があります。
2013年11月撮影
納富介次郎(1844-1918)は、小城藩士柴田花守の次男で、16歳の時納富六郎左衛門の養子となりました。13歳の頃、単身藩を脱し、長洲藩に遊び、志士と交わり、王政復古の大志を実現しようと京に上るも、計画を察知した父親に連れ戻されたそうです。
明治6年、オーストリアの万国博覧会に佐野常民に従って渡航、欧米の製陶技術を学んで帰朝、自ら新しい技術による工芸を試みるとともに、幼少の頃からの絵画への興味から後に図案や工芸デザインにも活路を開きました。
佐賀県を初めとする日本各地に県立工業学校を作り、また女子の工芸教育振興にも尽力しました。
2013年11月撮影
介次郎は妻静子とともに眠っていました。静子は大正6年10月、65歳で没し、介次郎はその後を追うように、翌7年3月に75歳で亡くなっています。
2013年11月撮影
ちなみに、この写真の二人の墓の間の奥のほうに見える厳かに営まれている墓は、夏目漱石の墓です。
2013年11月撮影
雑司ヶ谷霊園は、豊島区の南部にあります。東側の音羽池袋線を挟んで向かい側には大隈重信の墓があった文京区の護国寺があります。
この雑司ヶ谷霊園もかつては塀に囲まれた墓地だったらしいのですが、今は明るい雰囲気の霊園になっていました。
ここには、竹下夢二や小泉八雲、ジョン万次郎、泉鏡花、大川橋三という人たちが眠っていますが、佐賀県関係では納富介次郎の墓があります。
2013年11月撮影
納富介次郎(1844-1918)は、小城藩士柴田花守の次男で、16歳の時納富六郎左衛門の養子となりました。13歳の頃、単身藩を脱し、長洲藩に遊び、志士と交わり、王政復古の大志を実現しようと京に上るも、計画を察知した父親に連れ戻されたそうです。
明治6年、オーストリアの万国博覧会に佐野常民に従って渡航、欧米の製陶技術を学んで帰朝、自ら新しい技術による工芸を試みるとともに、幼少の頃からの絵画への興味から後に図案や工芸デザインにも活路を開きました。
佐賀県を初めとする日本各地に県立工業学校を作り、また女子の工芸教育振興にも尽力しました。
2013年11月撮影
介次郎は妻静子とともに眠っていました。静子は大正6年10月、65歳で没し、介次郎はその後を追うように、翌7年3月に75歳で亡くなっています。
2013年11月撮影
ちなみに、この写真の二人の墓の間の奥のほうに見える厳かに営まれている墓は、夏目漱石の墓です。
2013年11月撮影